性犯罪弁護を例に・・・弁護士、必要ですか

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許せますか?

今の日本は、子ども達が総じて早熟で、方や大人達は未熟と云われる。子どもが早熟で、大人が未熟なら、両者の距離は簡単に縮まりますね。ですが・・・

子どもが早熟と言うのは思い違いで、子どもが大人のフリをするだけ。しかも、子ども相手にビビる大人が多いから、子どもがのぼせ上がっている。

大人が未熟と言うのも思い違いで、大人が子どものフリをしてるだけ。「責任」にビビる大人達が責任逃れで、子どものフリをして「無責任」を装う。

↑のことを掛け合わせれば、結局、大人が大人になりたくない。子どものままでいたい。と駄々を捏ねて、泣き言ばかりを言っているのが日本社会の現実という感じですね。

大人のくせして、何か悪いことをしでかして、いざとなったら「自分は悪くない。周りが悪い」「自分は悪くない。自分を育てた親が悪い」「自分は悪くない。・・・」===>>>そうだね、親や教師や周辺環境が悪かったのであって、「あなたはけっして悪くない」と甘やかすだけの”大人の対応”。

・・・は?「自分は悪くない」としか言わず謝ることも出来ない。例えば、部下の不始末を部下に謝らせずに上司が雁首揃えて「申し訳ありませんでした」と頭を下げてそれでチャラ?ふざけているよね。

悪さの被害に遭った人にはどういう罪があったと言うのか?「自分は悪くないのに、自分を加害者にするような被害者がいたことが悪い」とでも言うのか?そういう理屈がまかり通るのか?・・・まかり通るのか?じゃなくて、まかり通るようにしてしまっている。”加害者の人権”が優先され、弱者となった被害者は、泣き寝入りして我慢するのが当たり前、という考えがまかり通る狂った社会。

弁護士は必要ですか?(1)

悪いことは悪い。だから、悪いことをして罪を問われるのなら謝罪して罪を償うのが当たり前。ところが、「自分は悪くない」としか言わないで謝罪要求すら一切受け入れないろくでもない人間を、庇うどころか正当化してしまおうとするのが弁護士である。

ところで、弁護士なんていう人達はいつ頃誕生したのか。色々と調べてみましたが、どうやら、裁判の歴史よりは随分浅い歴史らしい。そもそも、狭い社会だった古代に於いては、トップの指示に従う事が当たり前であり、仕来りに背き、罪を問われるような間違いをしでかした者を庇うなど、家族以外には誰もしたがらなかったでしょう。そんな事をしたら、弁護(擁護)した人も罪人と同罪のように見て取られ、危険な目に遭う。逆に言えば、誰も擁護してくれないから、自分で自分の身を守るしかない。若しくは家族が必死で守る。一族郎党皆殺しに遭うとはそういうこと。仕来りに背いた人に対して、弁明の機会は与えられますが、(裁判のような場で)その弁明が聴衆の理解を得ることはかなり厳しかったでしょうね。だから、ソクラテスでさえ弁明による徹底抗戦を無駄と諦め処刑を受け入れた。

尤も、弁明の機会を与えられることすら殆ど許されなかった古代では、その代わりに、「決闘」で白黒ハッキリさせる事が許されていた地域社会はあったようだ。その場合、代理人決闘も認められ、罪を犯した側が決闘に勝ってしまえば無罪放免となった。被害者側にとっては犠牲を増やすだけの大損ってことですね。それこそ、戦いに強い者が勝つに決まっていて、プロ決闘士(早く言えば殺し屋)のような”仕事”さえ生まれた(刺客の祖?)。この決闘裁判なんていう如何にも理不尽な制度を改めるには、やっぱり弁明しかなかった。しかし、弁が立たない者は、例え無実でも処される他はない。それじゃ、決闘しかない。この堂々巡りを脱する為か、古代ギリシアや古代ローマで始まったと言われるが、弁が立たない者の代わりに代弁者制度が許されるようになり、この代弁者が弁護士と言われるようになる。

当たり前ですが、雄弁な人が代弁者になることが多く、雄弁な人は政治家を志すような人でもあり、古代ローマで最も有名な弁護士がキケロであり、そしてカエサル(シーザー)だった。この二人は、ほんと同じ職業分野でよく争い、キケロの方が腕も弁も立ったが、人脈や財力、そして権力を操る術に於いてはカエサルが勝っていたし、カエサルは稀代の人たらしであった。

キケロとカエサルの争いについては、何れ、ローマ史のエッセイとかで詳しく触れることになると思いますので今回はスルーです。

弁護士のおかげで、罪が正当評価されて相応の刑罰で済んだり、或いは無実を証明出来たりと、制度自体は悪くない。しかし、有罪なのに(弁護技術で)無罪にしたり、不当に減刑されたりと、弁護士の弁護の有り方については問題が多過ぎる。弁護士の腕次第で罪科・量刑が決まるのなら、これは、古代の決闘裁判と何ら変わらない。決闘に強い者が勝つ。それと同じように、弁が立つ者が勝つ。単純にそれだけのこと。正当に罪を償わす為の代弁とか、不当な量刑を撤回させる為の代弁とか、そのような「正義」は何処にも見えない。と言うか、既に現代(日本)の裁判には「正義」など何処にもなくて、糾弾する側も弁護する側もそして裁可を決する側も、皆が知識とか技量とかを競い合う弁論大会のようなものに過ぎない。特に、裁判の”勝敗”が報酬に直結する弁護士は、弁護を頼んだ相手が悪人だろうと何だろうと、「勝つ」ことだけを目的とする。正しく裁いてもらう為の弁護ということなど綺麗ごととしか思っていない。そんなプロ決闘士の如き血の通わない「職業弁護士」など必要ですかね?

正しい強さ、とは?

結局は、弱者は弱者のまま(弱者を裁判で勝たせるのも「雄弁者」の技量による)、強者は強者のままというのがヒト社会。でも、腹が減ったから弱者を食らうという弱肉強食の「生き物」の仲間ですから、弱かったら食われるのみなのは理解出来る。だからと言って、あくどい強さで良いわけがなく、正しく強くなければならない。

しかーし、である。正しく強くある者が正当に報われる社会でもない・・・・。悲しいことに、あくどい下劣な者たちが好き勝手して生きている社会でもある・・・・。どうして、世の中ってそうなんでしょうかね。まぁ、ろくでもない大人達がろくでもない子育てして、またろくでもない育ち方をした人間がろくでもない大人になって・・・ほうら、結局は「自分は悪くない…」ばかりになっていくでしょう。これは無限ループしますね。でも、いつからろくでもない人が増えていったかと言えば、太古の昔からです。人間の”社会”が出来て以降、ずーっとろくでもないわけですよ。じゃあ、人間の社会なんか終わらせてしまう方がいい?なーんて焦らずとも、命あるものには必ず終わりが来ますから、命をわざわざ縮めずとも、命ある限りは生き方を楽しみましょうよ。終わりが来るその時までは”人でなし”ではなく”人として”、ね。

それで、この話にも終わりが来て良さそうなものですが・・・

淫行多過ぎない?

ちょっと強引に淫行話へ。

もうどうしようもないくらいに、毎日ゞ何件ゞも、淫行事件が報じられる。何なんだ?ほんとろくでもない社会だ。

分かるよ。少女は可愛いに決まっている。でも、ただそれだけの事でしょう、普通。

一昔前であれば、大人は怖くて子どもの話し相手になどならない存在だった。ところが、同世代とはろくに会話も出来ないくせして、年端も行かない子どもとの会話を必死で”欲しがる”、幼稚で異常な大人が急速に増えている。その会話が、大人と子供のなんていうか指導的な会話ならいざ知らず、性的なエロ話。早い話、変態ロリコンだね。自分に、そういう”需要”がある事を知っている子ども達は、既に、世の大人達を手玉に取って遊んでいるし、一蓮托生で見ていて、総じて尊敬している筈がない。

大体ね、機が熟すのを待てないことと、実が熟すのを待てないこと。その二つの言葉を掛け合わせば、「熟すのを待てない人は機実(気味)が悪い人」ってことだ。

成熟しない実は、苦いか渋いか酸っぱいか、腐っているか。とにかく、しっかり熟した実よりも美味しくない事は間違いないし、安全に食せる筈がない。それを美味しいとか、安全とか思い込んでいるわけだから、その感覚(味覚、触覚、嗅覚、・・・)は異常だし、早く言えば、成熟しない実(身)しか欲しがらないのは重度の(知覚)障害だから今すぐ病院へ行けよって事ですね。ほんと気味が悪い。気味が悪い感覚を持つ大人が起こしている犯罪だから、余計に気味が悪い。

何も問題なく、その熟れた美味を堪能出来る実がたくさんあるのに、わざわざ危険な(毒かもしれない)実を齧ろうとするなんて正気の沙汰ではない。そして、犯罪者と言うレッテルを一生背負うことになる。

好きになった相手が、たまたままだ熟す前の子どもだった?だったら、「好きになった」本気度を示す為に、熟すまで(大人になるまで)待てばいい。それが出来なきゃ全て詭弁。十分な栄養(時間と教養)を身に着けて成熟しようとする少年少女達を、そうはさせまいと途中で芽を摘み取ろうとしている犯罪者に過ぎない。

少年少女達が大人ぶっていて(成熟している素振りを見せて)、だから思わず手が出てしまった?
でも、手を引く時間は持てた筈。それをしなかったのだから、結局は詭弁だ。

成熟したものからは相手にされない?
だからどうした?
相手にされないような生き方をして来たって事だから、相手にしてくれない人達が悪いわけでもない。育った環境が悪かったにせよ、それも宿命として生まれ育ったのだから我慢しなければならない。人として生きたいのなら我慢を覚えて然るべき。我慢出来ずに、本能のまま生きているにせよ、熟さない実まで欲しがるのは卑し過ぎる。

不肖私は、ニンフェットと知り合えた場合、異性として見ない絶対的自信があるか?ございません。

不肖私は、ニンフェットを性的対象として見ることを”やせ我慢”で自制出来るか?それは出来ます。

不肖私でさえ出来る簡単なことを、教師とか経営者とか政治家とか、なんとかかんとかのエラそうな優秀な人達が何故出来ない?教師の特権?金持ちの特権?権力者の特権?・・・なんていう特権は認められていない。それなのに・・・

弁護士は必要ですか?(2)

社会全体で守って行かないとならない少年少女を、狂った特権意識で食い物にする不逞の輩でさえ、勝たせて大きな報酬を遠慮なく頂こうとするこれまた狂った弁護士は、必要以上に庇い立てする。追い詰めてはならない子どもたちの方を追い詰めて、正当な罪を償わせるべきの腐った大人を勝者にする。こんな弁護制度って必要ですか?〇〇〇ちょん切ってポイっで牢屋にぶち込まないとならないでしょう。そして重要なのは、こんな腐った大人に近付けるような子ども達の生活環境を何としてでも変えないとならないって事でしょう。

大体、弁護士もおかしいけれど、日本の場合は、憲法がもう時代に即していないし、民法も刑法も民事訴訟法も刑事訴訟法も、古い思考そのままで変えられていないものがたくさんある。他の法律も地方自治体の条例も変えないとならない部分が変えられないままというケースが少なくない。法律や条例は、本来は、市民生活を正しく守る為にある。だjから、市民生活に合わなくなったら、正しく変えられて然るべき。ところが、時代に即さない古いままの法文や条例文を守るために市民が不利益を被っている。そのような状態なのは、結局、「誰がやっても一緒」とか、腐った考え方しか出来ない有権者が50%も60%も、いやそれ以上を占めているからです。結局、自分たちで自分たちの首を絞めている。

不肖私は、此処はちょこっと言っときますが、成人して以降、選挙投票はほぼ100%に近いです。一回くらい、入院していて行けなかったかもしれないけど、ちゃんと立候補者の主義・主張を聞き、投票しています。当たり前じゃん。自分の生活に直結する議会に送り出す「代弁者」達なんだから。政治家に遠慮するのもおかしい。「俺の声を議会に届けろ、よろしく!」で良い。

市民(国民)の声の代弁者たる政治家の腐りようは、市民が腐っている事の鏡写しだから。

さて、主題の弁護士ですが、日本弁護士連合会のWeb-Siteには、弁護士法の第1条1項の条文が紹介されている。

弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とします

金を支払ってくれる加害者の人権には必要以上に向き合っても、逆に、高額報酬を阻止しようとする被害者の人権とは全く向き合わない。結局すべては金次第。という事は見透かされているのだが、弁護士法には上述のように書かれている。しかし、全ての国民の基本的人権とは書かれていないところがね。

性被害者の子どもの人権など一切無視で、金を払ってくれる腐った大人(加害者)の人権についてだけはやたらと誇張する。呆れ果てるしかないが、弁護士は必要ですか?

弁護士は世の中に必要でしょうけど、弁護士など必要としない、本人の肉声のみで弁明させる裁判があって良いのでは?金さえ払えば(悪罪だって)何とかなる。そんな世の中はおかしいよね。〇〇〇ちょん切ってポイっ。そして牢屋にぶち込む。真に反省するまで一切社会に戻さない。それで良いのでは?

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