エビデンスなきホモ・サピエンス史

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歴史は戦史を伴う。敗北し滅ぼされた側にも歴史はある。が、”勝者のフィルター“を介し都合よく書き換えられたものが少なくはない。勝ち残った側の歴史にも、”誇大広告”のような奇想天外話が馬鹿々々しくも堂々と盛り込まれている。
歴史を何処まで信じるか?御伽噺のような神話を信用出来るのか?何かあればすぐにエビデンスを要求する現代人が、どうして何の検証もない”物語”を歴史として学び、知識試験を受容しているのか。何々の七不思議みたいなものが世の中にはあるけれど、『歴史』こそが一大不思議だと思う。

古代バビロニアのバビロン神殿では、処女買春が日々繰り返されていた。バビロニアに限らず古代国家には、破瓜の血が邪悪なるものと信じていた民族・部族・一族が数多ある。破瓜の血を浴びた家には災いが下りると本当に信じられていた。それ故、婚期を迎える少女達は、貴族の娘も平民の娘も奴隷の娘も、神殿内に於いて、処女を非処女とする儀式を受けた。
これは生贄的儀式でも何でも無く、古代に於ける女性達の成人式。そして、いつ、誰が訪れて破瓜の儀式に臨んでも構わない、極めて普通の日常光景だった(つまり、フリーセックスによる処女喪失)。こういうことも、神話が行わせていた業です。
そして重要なことは、神殿破瓜は「処女喪失」を証明する儀式ではなく、逆に、「処女であること」が証明される儀式。なので、この儀式に因る「処女受胎」も普通に起きた。「処女から生まれた子」を数え出したらキリがないくらいに多くの”イエス・キリスト”が生まれていた。

紀元前597年、587年、586年、582年、581年と繰り返されたユダヤ人のバビロン捕囚。送られたバビロンでこの儀式を目の当たりにしたユダヤ人達も神殿内での破瓜因習に興味を持った。いや、ユダヤ人自身が持ち込んだことかもしれない。真実は分からない。

バビロニアを攻略して以降、バビロンを居住区の一つとしたアケメネス朝でもこの習慣が取り入れられて、ペルシャ神殿でも破瓜儀式は行われた。それを古代マケドニアも見習ったのかどうかは分かりませんが、マケドニアに勝利した古代ローマミトラス教でも神殿破瓜は行われていた。だからこそ、彼のカエサル(シーザー)だって「俺は処女から生まれた」と吹聴していた。

アケメネス朝によってバビロンから追放され再びエルサレムなどイスラエルの地へ戻ったユダヤ人は、バビロンの神殿破瓜儀式をユダヤ神殿でも行うようになった。

しかし、後に聖母化されるマリアの家ではその儀式を強く否定していた。或いはまだ早いと禁じられていた。しかしマリアはこっそり神殿へ出向き、そして思わぬ妊娠をしてしまう。彼女は困った末に馬小屋で子を産むしかなかった。そういう風にこっそり出産する娘達は大勢いて、そういう子ども達は皆「イエス」とか「ノー」とか単純な名を付けられて”捨てられた”。
ジーザス・クライストという言葉ですが、「しくじった!」「こんちくしょう!」という語彙を含むと云われる。聖母マリアにとって(こっそり出掛けたつもりの)処女受胎は、正に「しくじった」結果。という見方もある。
イエス・キリストが処女から生まれたという伝説は、こういう儀式を行っていない国や地域では驚きを持って迎えられたが、ミトラス教のローマでは珍しくもなんともない話で、それを殊更強調するキリストの信者達は疎まれた。が、或る時、突然ブーム化したキリスト教はヨーロッパを席巻する。

人や社会は神話を気に入れば自分達に都合よく解釈し、その風習を取り入れる。気に入らない神話は潰す。歴史はそうやって彩られて来た。(神話に於いては英雄よりは、母なる女性の云い伝えの方が遥かに多い)。

ケルトの語源は、紀元前600年頃のギリシャ人が、異民族を指して言った「ケルトイ」だと云われる。ギリシャ人と出くわす以前のケルト人が何と呼ばれていたかは知らない。

ケルト人は、ハルシュタット文化などの古代文化を発展させた種族と云われ、紀元前1500年頃から現在で云う処の中欧に勢力範囲を設け、紀元前400年頃には全ヨーロッパに分布した。
ローマ人が総称して「ガリア人」と指していた全ての部族の殆どが、ケルト系部族だったと云う説も有る。これについては、上述したカエサル著の「ガリア戦記」に詳しく書かれているが・・・

ケルト神話には、絶対神も無ければ天地創造話も無い。と云うのも、案外、それはギリシャ人やローマ人やゲルマンの諸部族にとって都合の良い話では無かったからかもしれない。つまり、キリスト教徒にとってあまり都合の良くない話だったので、ケルト神話から消された可能性がある。
ところであくまでも個人的主観だけど、ケルト神話の神々の中に「美神」つまり女神が足りない気がする(女好き男の個人的主観)。

ケルト神話の殆どは、アーサー王に依る口伝とされるが、アーサー王なる人物が実在したかどうか証明は出来ていない。
アーサーの言葉を文書化したのはキリスト教の修道士。キリスト教側の伝道に拠れば、アーサーは、その修道士を信用してキリスト教へ改宗したと云われるが、それこそ云い伝えの書き換えは如何様にも可能ですからね・・・

大陸のケルト発祥地点(ハルシュタット辺り)も、ケルトの語源の話も、全てアーサーと修道士の会話で書き起こされたものらしい。つまり、ケルト最大の英雄にして神話の主役と言える「ク・ホリン」は、アーサーをイメージした”キャラクター”と言える。

色々と奇想天外なケルト神話ですが、ク・ホリンは、5世紀のアイルランドに生きていた。彼の父親は太陽神ルー。母親はドルイド(ケルトの祭司)の僧カスヴァズの娘で名はデヒテラ。
ク・ホリンという名は通称で本当の名はセタンダ。眉目秀麗で背が高く、快活。婦人や詩人に気に入られた。しかし戦場での彼は、羅刹の如く豹変し、筋肉は異常に震え、踵と脹脛が体の前面に現れ、顎は大人の頭ほどに膨れ上がり、サンザシのように逆立つ髪の毛から深紅の血液が滴り落ちる。頭の先からは黒ずむ血の管が船の帆柱の如く屹立する・・・化け物?

ク・ホリンは、息子の顔を知らず、そして戦士となった息子を殺し、殺した戦士の指環を見て、嘗て交わった女戦士へ贈った指環と気付き、息子だと悟る・・・などなど悲しい物語も生みながら、話が進む。ケルト神話は少しだけ読んだけどなかなか面白い。ファンタジー度で有名な北欧神話にも負けていない。絵本なら、子どもは(親も?)ワクワクしながら読むでしょうね。

やがて大陸を追われたケルトは、ブリテン島やマン島やアイルランドへ向かい、島嶼のケルトとして生き残り神話を繋いだ。しかしケルト神話はあくまでケルト神話。アイルランドやイングランド、スコットランドの国の興りには関与しない。イングランドでは、アーサーが実在した事を否定する考え方も少なくないと言う。

アーサーを否定するイングランドとアーサーを好むアイルランド。ケルトを一蹴したイングランドは欧州の主要国となり、ケルトに愛されたアイルランドとは”隣の島同士”で長い間対立した。(今も、北アイルランド解放問題を巡る争いはけっして終息していない。)

兎に角、信仰、神話の捉え方が違えば歴史観の多くがズレる。イスラム教にとってのオリエントの歴史とユダヤ教にとってのオリエントの歴史とキリスト教にとってのオリエントの歴史は違う。日本を巡る歴史も日本国内と国外からの視点では違う。そもそも、国内に暮らす国民同士でさえ知っている歴史は異なる。

歴史は家庭(家族の庭先)の延長線上にあり、雑草(無用な歴史)が生えれば(生まれれば)容赦なく刈り取る。大切な歴史を踏みつぶされたくなければ、常に、手入れを施し余計な雑草は目立つ前に刈り取る。でないと、面倒な事になる。

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