世界で最も多くの人の心が寄せられる墓地ペール・ラシェーズ

LOVE & EROS

フランスの地域コミュニティ

コミューン

フランスの基礎自治体には「市」「町」「村」がない。日本のメディアや作家が、フランスの諸都市を”何々市”とか”何々村”のように紹介するのは、あくまでも日本人がその都市規模を想像し易い様にという配慮であり、フランスでは、基礎自治体を全て「コミューン」と呼ぶ。(如何にもフランスを深く知っているかの如く書き出しましたが、歴史学習的に知っているだけであって、凄く行きたい国だけど行ったことなんて一度もないです(苦笑))

住民が一人しかいないオーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏ドローム県のロッシュフルシャも、約225万人のイル=ド=フランス地域圏に位置する首都パリも、コミューン(ロッシュフルシャ・コミューン/パリ・コミューン)。つまり、市民とか町民とか村民という区別はなく、全ての国民は”コミューン民”。居住地が田舎であろうと都会であろうと、何処に暮らしていようともフランスの民は”コミュニティ・ピープル”です。コミュニティ・ピープル。支配されていない感じで、なかなか良い響きです。
但し、フランス人は愛郷心が凄く強い人達であり、故郷を大事にすることでは世界のどの民よりも勝っている。だから、自治体同士の合併なんて絶対にやらない。住民がゼロになるまで、最後の一人になってでもコミューンを守る。その事をロッシュフルシャを例に取ると・・・

ロッシュフルシャ

ロッシュフルシャは、元々、ロッシャ・フォルシャという城を1178年に築城して神聖ローマ帝国と相対した防衛拠点だった。1766年、最後の領主(城主)レ・ド・ノワンヴィルが薨去して30年間誰もいない状態になったけど、1796年にピエール・ジョソーという商人によって周辺の土地が買収される。以降、ジョソー家が ロッシュフルシャと地名を改めて住み続け、現在、ジョソー家の末裔が一人で暮らしているが、コミューンである以上「自治体予算」が付く。そして議員もいて議会も開催される。現在の議員は9人だが、当然、ロッシュフルシャ以外に暮らしている。変わった仕組みだけど、それがフランスというお国柄らしい。実に面白い。

パリ・コミューン抵抗の地、ベルヴィル

首都パリは、遠い昔、ローマ人からはガリアと呼ばれていた集落を中心としていた地域で、その頃の主民であったパリシイ族は其処をルテティアと呼んでいて、ガリア戦争の舞台にもなった。
その後、パリシイ族はそもそもの出自であるケルト民族の中に溶け込みブリテン島やアイルランドへ移住した者達と、現在のナンテール辺りに退き生き残った者達に二分されたと言われています。
やがて、大きく台頭したフランク族がルテティアを奪い取り、フランク王国の首都として都市整備が行われた。更に、パリシイ族との共存共栄の目的の為か分かりませんが『パリ』と名付けられ今に至る。

流石に、世界的な都市であるパリを一つのコミューンが自治運営するのは無理があり、パリには数字分けされた20の行政区がある。その20のコミューンそれぞれに特色があり、裕福な人達が”似合う”地域も貧困に苦しむ人達が暮らす地域も学術地域も世界的な商業地域も移民十院中心の地域も・・・という具合に様々あり、”パリ市民”同士は、互いの貧富格差を強く意識し合いながら暮らしている。特に、東部に位置する第20区には”下層”労働階級者や無産階級者が多く暮らす。治安も良いとは言えずけっして裕福ではない土地柄ですが、嘗てのメロヴィング朝の王達は、現在の第20区を代表するベルヴィルという小高い丘の一帯を好んで暮らしていたと言われる。

ベルヴィルは、1789年に単独のコミューンとして当時のセーヌ県(1968年に消滅)で基礎自治体を成した。しかし、1860年に当時の皇帝ナポレオン3世のパリ改造計画によってパリに編入されてコミューンは解体された。

それから10年後の1870年9月。フランスはプロイセンに大敗北を喫してナポレオン3世は、プロイセンでの捕虜生活を経てイギリスへ亡命。1873年1月9日に崩御。ナポレオン3世はフランス最後の皇帝となった。

ナポレオン3世の帝政(第二帝政)に対して失望と怒りを隠し切れななかった当時のパリは、フランス国家からの独立を宣言します。これが有名な、「プロレタリアート独裁による自治政府=パリ・コミューンの成立宣言」。そしてベルサイユ(フランス政府)とパリ・コミューンは内戦を勃発。首都が国家から独立宣言するという日本人にとっては驚くような出来事だけど、個を大事にする如何にもフランス的な出来事です。これが成せていたら、パリ・コミューン主導のフランス国家という流れへ向かい、それはそれでリヨンやマルセイユなどの他都市住民との軋轢を生んだとも考えられる。いや、なんか凄く斬新な国家の形が出来て、それが世界を変えた可能性もある。大戦争なんて消えてなくなったかもしれない。しかし・・・

パリ・コミューンの”独立戦争”は2ヶ月で終息。パリ・コミューンは政府軍に降伏。帝政を捨てたフランス国家は、パリを首都とする民主共和政国家構築へと向かう。という何ともユニークなパリですが、第20区一帯は、政府軍に対して最後まで抵抗した激戦地として知られている。そして、パリ・コミューンとベルサイユ政府軍が激しく戦闘した第20区を象徴する場所の一つが、 ペール・ラシェーズ墓地です。

ペール・ラシェーズ墓地

最期の激闘の地

ペール・ラシェーズが、「訪問数世界一の墓地」という事には多少疑問も残りますが、「世界で最も有名な墓地としてその名を挙げる人は多い」という事に対しては何も否定する理由がありません。

ペール・ラシューズは、パリ・コミューン最後の抵抗地となった。ペール・ラシェーズでの決戦以前に「血の週間」と呼ばれる程の殺し合い(殺戮)が繰り広げられた。老若男女、民間人が圧倒的多数を占めているパリ・コミューンに対して「市民の生命は鳥の羽根ほどの重さもない。」という強い態度(凶暴な姿勢?)で対処したヴェルサイユ政府軍は、投降した市民にさえも銃殺、惨殺を実行した。悍ましい光景を見せ付ける事で早期終結を図ったのでしょうけど、逆に強い憎悪を生む。当然ですね。しかし軍隊と民間人の戦争ですから、その結果は目に見えている。それでも、「降伏などせず、闘いながら死ぬ。これがパリ・コミューンの歴史を偉大なものとして後世に遺せる」と徹底抗戦の強硬派に従った人達は、自分達から流れ出た血が”ペール・ラシューズの土”となる事を選んだ。そして「土の中からの呻き声が止まらない」とまで表現された最期の凄惨な殺し合いの舞台となった。

結局、3万人超(一説では5万人?)の市民が殺されたこの内戦こそが、その後のパリ市民やフランス国民の思想・思考に強い影響を与えたと言われます。

自国政府軍と戦った経験を持つパリ市民が、ナチス・ドイツ相手に無抵抗で屈する筈もなく、自国軍が敗北しても尚、パリは、ナチスと戦い(レジスタンス)、それが第二次世界大戦を連合軍勝利へ導いたと言って過言ではない。

ペール・ラシェーズに眠る人々

パリ・コミューン独立戦争の名もない市民達が大勢眠っていることは言うに及ばずですが、この墓地を好んで永眠の地として希望する人は後を絶たない。

ピアニスト

今年(2019年)の1月26日。大の親日家として知られ、何度も日本公演してくれたピアニスト兼作曲家、映画監督でもあるミシェル・ルグラン氏(1932年2月14日生)は、ベルヴィル地区のメニルモンタンで生まれ育った。そして、今は、ペール・ラシェーズに眠る。

「ミシェル」の名を持つピアニストと言えば、フランス最高のジャズ・ピアニストとしてその名を(実力で)刻むと共に、骨形成不全症という先天性疾患を持って生まれ育ち、骨は脆く、そして身長も1メートル程度にしか伸びなかったミシェル・ペトルチアーニ(1962年12月28日生~1999年1月6日・永眠)もペール・ラシェーズに眠っている。奇しくも同じ1962年生まれの不肖私も、先天性の両股関節障害を持って生まれてちょっと腐っていた時期もあったけど、20代の頃にこの人を知って自分の甘さに気付かされたことをちょっと思い出した。30代前半でフランスの最高勲章であるレジオンドヌール勲章を受勲した凄い人。でも36歳の若さで他界。調べてみたら、ペール・ラシェーズに眠っているとの事でしたので付記させて頂きました。

ピアノ音楽が好きなので先にこの二人。

偉大なシャンソン歌手同士の恋?

ミシェル・ルグランが眠るお墓の”ご近所さん”として先に眠っているのがイヴ・モンタン(1921年10月13日生~1991年11月9日・永眠)。イヴ・モンタンは、イタリアのトスカーナ州にあるモンスンマーノ・テルメというコムーネ(基礎自治体)の生まれです。しかし、強固な共産主義者の父親が、ベニート・ムッソリーニ(国家ファシスト党を率いて首相となる)を激しく嫌い、生後間もないイヴ・モンタンを連れてフランス・マルセイユへ移住。23歳頃の1944年にミュージックホールの歌手としてステージに立っていた彼を見い出したのが、フランス最高のシャンソン歌手エディット・ピアフです。

エディット・ピアフは、1915年12月19日にベルヴィルの貧しい人達が暮らす一角に生まれた。路上出産だったという噂もあったが、取り敢えず、病院出産の出生証明書があるらしい。エディット・ピアフの母親(アンネッタ・ジョヴァンナ・メラール)は、奇しくも、イヴ・モンタン生誕地に近いイタリア・トスカーナ州のリヴォルノというコムーネで生まれ。そして、イヴ・モンタンと同じようにカフェ・シンガーとして歌っていて、夫となる大道芸人( ルイ=アルフォンス・ガション )と知り合った。二人は極貧生活の中で一緒に暮らし、そしてエディット・ピアフが生まれたが、経済的育児能力がないと判断された。最初は、母方の実家にという事だったけど孫娘の存在を毛嫌いした母方の親は育児を拒否。父親ガションの母が経営する場末の売春宿に預けられた。環境としては最悪だったが雨露は凌げた。フランス・シャンソン界最高の歌手として現在も称えられるエディット・ピアフの人格と人生観は、幼少期より、場末の娼婦や彼女らが相手にする客達と接して来た事に大きく影響されていると云われる。

15歳でストリートシンガーとなり街角に立つようになったエディット・ピアフは、16歳で妊娠して女の子を出産するが、その子は僅か2歳で夭逝している。

20歳前に再び歌い出したエディット・ピアフは、ナイトクラブのオーナーであるルイ・ルプレーに見出されてナイトクラブの専属歌手となる。ところが、ルイ・ルプレーは殺人事件の被害者となりこの世を去る。その時、エディット・ピアフは容疑者(共犯者)として告発されたが、警察取り調べによりその嫌疑は晴らされた。が、逆にこの事件によってエディット・ピアフの名は世に知られる。彼女に興味を持った一人に「芸術のデパート」と称される程多才な詩人・小説家・劇作家・評論家・画家・映画監督・脚本家(それぞれ全てが本職)であったジャン・コクトー(1889年生~1963年没)がいた。

レオナール・フジタこと藤田嗣治(1886年生~1968年没)と凄く懇意にしていて、親日家でもあるジャン・コクトーは、エディット・ピアフと知り合った頃には酷いアヘン中毒症に罹っていたけれど、彼女の為に書いた演劇『 Le Bel Indifferent 』を書き上げることに執念を燃やした時に、アヘンから逃れることが出来たと云われる。(※ジャン・コクトーや藤田嗣治がこの墓地に眠っているわけではないのでアシカラズ)。

ジャン・コクトーの他にも多くの作曲家が彼女の人生に興味を持って、彼女に歌詞を書かせて曲を作ることを望み、そしてその曲を彼女が歌い人気を博していく。ドイツ占領期と重なる時期ですが、後の1998年グラミー賞特別名誉賞を贈られた『バラ色の人生』もこの頃に作られた歌で、彼女はドイツ軍に臆することなく歌い続けた。そういう中で、6歳下のイヴ・モンタンを知り、自分の母親と似た境遇のイヴ・モンタンを可愛い後輩として支援。次第に二人は恋仲となる。

同じ時期、シャルル・アズナヴール(1924年生~2018年10月没)を見い出したエディット・ピアフは、モンタンとアズナヴールを伴ってアメリカへ公演旅行に向かう。恐らく、その旅先でイヴ・モンタンが愛人化された?(アズナヴールが眠る墓はちょっと分かりません)。エディット・ピアフは、歌手としてもプロデューサーとしても一流であり、彼女が目を付けたアーティストの殆どが成功を収めたと云われている。

エディット・ピアフ・・・『愛の讃歌』と死まで

1949年。彼女は大恋愛していた(イヴ・モンタンは単なる愛人)元世界ミドル級王者であるプロボクサーのマルセル・セルダンを飛行機事故(1949年10月28日、「エールフランスロッキード コンステレーション墜落事故」/アゾレス諸島サンタマリア空港への着陸事故:乗員乗客48人全員死亡)で亡くす。哀しみのどん底にあった彼女が歌う『愛の讃歌』(生前のマルセルに愛を捧ぐ彼女が作った最高楽曲の一つ)は皮肉にも世界中で大ヒット。エディット・ピアフは、この曲を歌う事から逃れることが出来なかった。最初の出会いで、「どうして悲しい歌ばかり歌うの?」と聞いて来たマルセルに対して、「どうして殴るの?」と聞き返したピアフ。初めての出会いのその会話で急速に惹かれ合い大恋愛へと発展。『愛の讃歌』は、彼女が2日毎にマルセル・セルダンに送ったラブレターの集大成とも云われている。 『愛の讃歌』は、日本では越路吹雪が歌ったことで良く知られています。 因みに、「マルセル」の名は、奇しくも彼女が18歳(17歳?)で亡くした娘(当時2歳)の名と同じ。

2年後の1951年。エディット・ピアフは自動車事故に遭い、その後、治療過程で投与されたモルヒネにより中毒症に冒された。モルヒネ中毒とマルセル・セルダンを失った悲しみから逃れる為に恋に逃亡した彼女は二度の結婚を経験するが、最初の夫で歌手のジャック・パルとは1952年から1956年までの4年間で破局。二人目の夫は、彼女よりも20歳も年下のテオファニス・ランボウカス(通称テオ・サラボ。1936年1月26日生~1970年8月28日・永眠)。

元々美容師だったテオ・サラボもまたエディット・ピアフに見出されて歌手デビュー。1962年に、エディット・ピアフのデュエットパートナーとして『恋は何のために』を大ヒットさせ、二人は20歳の年の差を越えて結婚した。が、この時既に彼女の身体は癌に冒されていた。ということをテオ・サラボが知っていたのかどうかは分からない。しかし、テオ・サラボが妻(エディット・ピアフ)の借金を全額肩代わりしたことは事実。700万フランだと云われていますので、現在レートで約7億7千万円。妻が先行き長くないことを知っていて、それくらいの借金は印税で支払えるとかいう打算的な考えで結婚したのなら酷い男だが、彼女の熱烈なファンだった男が妻とする夢を叶えたという話にしておきたい。そして、結婚から1年後。1963年10月10日に希代のシャンソン歌手エディット・ピアフは静養先のリヴィエラにてこの世を去った。

その翌日。1963年10月11日にエディット・ピアフの死が報じられると、大の友人関係になっていたジャン・コクトーは「まさか・・・信じられない」と絶句して、何と、その日の内に心臓発作を起こして他界する。・・・え、そんな事があるのか?!って嘘みたいな本当の話。

交通事故の後遺症とその痛みを和らげる為のモルヒネによって中毒症となり、更に、癌を発症してしまったエディット・ピアフ。彼女の2番目の夫テオ・サラボは、1年で終わった結婚生活の相手が遺した借金によって住いを追われた。が、妻に見出された歌手としての才能は大きく花開き、亡き妻の印税などではなく、自身の力で700万フランを完済してみせた。男だねェ~。ところが、彼も自動車事故に遭い、34歳の若さでこの世を去った。二人は、ペール・ラシェーズで、ピアフの娘マルセルと寄り添うように眠っている。

祖母が経営していた売春宿で育ち、街角でスカウトされたエディット・ピアフの生涯を描いた映画も幾つかあって、2007年作品の『エディット・ピアフ~愛の讃歌~』に主演してエディット・ピアフを演じたマリオン・コティヤールは、第80回アカデミー賞主演女優賞を受賞した。女性は絶対に観てみるべき映画だと思うけど、この受賞は、フランス人女優としては49年ぶり2人目の快挙。その49年前に受賞した女優がシモーヌ・シニョレ

映画監督イヴ・アレグレと離婚した後にイヴ・モンタンと再婚したシモーヌ・シニョレ(1921年3月25日生~1985年9月30日・永眠)も、この墓地に夫モンタンと共に眠っている。
シモーヌ・シニョレは、フランスの女優として初めてアカデミー賞を受賞した。ドイツのヴィースバーデンで生まれたシモーヌ・シニョレをフランス人と呼べるのか?という声はあるが、両親はユダヤ人。ドイツ社会がユダヤ人迫害へ向き始め、それから逃れる為にフランスへ移住。幼少期からパリで育った。ところが、ナチスドイツにフランスは支配され、フランスでもユダヤ人迫害が行われた。それでもシモーヌ・シニョレはパリに生き続けて女優となった。という事なので、フランスの女優という表現で間違いない。そして、シモーヌ・シニョレ以来49年ぶりにフランスの女優でアカデミー賞受賞者となったマリオン・コティヤールは、今、確実に世界的大女優の道を歩んでいる。44歳なのでまだまだ先でしょうけど、きっと、その時が来たら、この墓地でエディット・ピアフやシモーヌ・シニョレらと語り合うのだろうと思う。

ピアノの詩人フレデリック・フランソワ・ショパン、フランスオペラ音楽の大家ジョルジュ・ビゼー、20世紀を代表する作家マルセル・プルースト、傑出したソプラノ歌手マリア・カラス、女性を脱がす天才画家アメデオ・クレメンテ・モディリアーニ、最も偉大な百人のシンガーに必ず顔を出す(ドアーズのヴォーカル)ジム・モリソン、その他フランスに関係する(若しくはパリで没した)数多くの作家、音楽家、画家、彫刻家等々が眠っている。つまり、フランスや西欧社会を芸術面で楽しみ支えた人達が眠るペール・ラシェーズ墓地。
「そりゃぁ、我が国の有名な陵墓やエジプトの大ピラミッド群の方が訪問数は多かろう」と云うような問題ではなく、文化(芸術等)へ寄せる”思い”の問題です。

エロイーズとアベラール

其処に眠る多くの人達は、主に、現代から溯る事3世紀位からの人が圧倒的に多い。その中にあって、1142年4月21日に亡くなった稀代の神学者と、日付は不明との事ですが1164年に亡くなった美貌の修道女が、(多分)同じ墓、若しくは隣り合って眠っている。二人が此処に眠る様になったのは、パラクレトゥス聖堂から改葬された19世紀以降ですが、これはとても稀有な事。それほど、二人は(”千年も”語り継がれる)有名な恋愛を行った。神学者の名はピエール・アベラール(1079年生)。修道女の名はエロイーズ(1101年生)。

エロイーズは幼くして親を亡くし、しかし、ノートルダム大聖堂参事会員であった叔父フュルベールの支援を受けて、有名修道院(何処か分かりません)に寄宿して教育を受けた。美しく育ったエロイーズは17歳時にフュルベール家に引き取られます。美貌も然ることながら、その賢さをフュルベールは愛し、ゆくゆくは自らの後継者(若しくは、そういう名の愛人)と考えていた。そして、当時のパリで最も高名だった神学者アベラールに申し入れ、彼の直接指導を受けられる立場とする(つまり弟子)。

アベラールとフュルベールは同年代で、共に神に仕える者として独身だった。ですが、二人揃って20歳以上も年歳の離れた少女エロイーズの賢さと高貴な美貌に惹き込まれ、神職者にあるまじき恋に堕ちる。特にエロイーズと共に暮らしたフュルベールは、その欲望を抑えるのに大変だった。しかし、立場ある身のフュルベールは、姪のエロイーズへの思いを堪えて節度は守っていた。そういう時、片時もエロイーズと離れたくないと惚れ込んだアベラールが、「弟子を早く育成する為」とか何とかの理由を付けて、フュルベール家に住み込みでエロイーズを教育する事を申し出ます。

姪と二人きりの生活に限界(性欲を抑える為の、です)を感じていたフュルベールは、それを助け船とも思い、アベラールの住み込みを歓迎します。が・・・

先生と弟子の愛は、とうとう一線を越える。そしてエロイーズは子を孕む。これには当然フュルベールが激怒。当時、堕胎が許されず(多分、宗教上の問題もあって)彼女の出産は認められますが、フュルベールはエロイーズをブルターニュの親戚へ送る。エロイーズは、そこでアストロラブと名付けられる男児を出産します。

アストロラブのその後については多くは語られていない為、どうなったかは知りません。けれども、アストロラブが生まれた事は間違いないらしい。アベラールを叩き出したフュルベールは、出産を終えたエロイーズを連れ戻して、叔父と姪という二人の生活が再開します。けれども、フュルベールはもう以前の様に紳士的な叔父ではなくなった。嫉妬の感情を剥き出しにしたフュルベールは、サディストに変貌して毎日毎晩エロイーズを責め立てます(性的虐待も含む)。
やがて、助けを求めるエロイーズの思いはアベラールへ届き、アベラールは、フュルベールの留守を狙ってエロイーズを連れ出して、ヴァル=ドワーズのアルジャントゥイユの修道院に彼女を匿います。 

アベラールは、エロイーズに結婚を申し込みますが、既に戒律を破り出産に至った自らの事はさて置き、アベラールの将来を思うエロイーズは婚姻には承諾せず、修道女となる決意を固めます。アベラールも、愛するエロイーズの強い決意を尊重する。しかし二人は、「精神的結婚」を果たし、”心の性・愛”に全てを秘めてお互いを信じ合います。

アベラールとエロイーズの居場所を突き止めた嫉妬に狂うフュルベールは、刺客を雇いアベラールを襲撃。アベラールの局部(つまり、男根です)を切り取らせ、二度とエロイーズを妊娠させられない男にしてしまう。刺客二人は逮捕され、同じような処罰(局部切り取り)を受け、依頼者のフュルデールも聖職者としての地位を失います。そして、二人の前には二度と姿を現せなかった(と云われますが)。

アベラールは、フュルデールからの仕打ちを、「罪を犯した部分は、その罰を十分に受けた」としてフュルデールを許します。そして、エロイーズに対しては、パラクレトゥスの聖堂敷地内に女子修道院を創設する資金援助を行い、二人は目と鼻の先に暮らします。けれども、それ以降の生涯、ラブレターの交換のみを続けて肉体の関係を持たなかった。そして二人の近しい人達は、二人の精神愛を認めていた。二人は聖職者同士でありながらも、神に認められた愛のままに生きていると、人々は知っていた。

アベラールは、赴任地のサン・マルセル修道院で生涯を閉じますが、エロイーズの強い希望で、彼は、パラクレトゥスの聖堂敷地内に埋葬される。それから22年間、彼の墓を守ったエロイーズは、その生涯を閉じる時に「夫の傍に」と希望。亡骸は、フュルベールの埋葬地に共に埋められます。

そして、19世紀に至るまで二人の愛はフランスで語り継がれ、文化人に愛された二人は、ペール・ラシェーズ墓地へ改葬され、文化人達と共にその墓地で永遠に愛を語り合っている。というわけです。

日本の安倍定事件とはちょっと違う、”局部切り落とし愛”の史実で長いダラダラ話をようやく終了です。目出度し、目出度し。

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