ショーペンハウアー母子の確執

LOVE & EROS

母子の確執(1)・・・遺産相続争い?

アルトゥル・ショーペンハウアーは、女性蔑視者、或いは、異常性癖者であることを疑われている。特に、50歳代後半に執筆された『余禄と補償』内のー女についてーは、「歪んでいる」「捻くれている」「妄想が過ぎる」等々の評価を受け、崇高な哲人である事を否定されかねない酷い内容。って事もないんだけど・・・

「男とは・・・」「女とは・・・」。ヒトを二分論で決め付けてしまったアルトゥルは、母ヨハンナや妹アデーレ以外の女性を知らないのではないか?つまり、「女性と交際した事が無いのではないか?」という疑いさえ持たれそうだ。が、実際は”男として”やることはやっている人です(笑)その話は先送りして前回のお浚いから話を繋いでいきます。

代々続いていたショーペンハウア商会は整理解散しますが、ハインリヒ・ショーペンハウアーが遺した資産は莫大なものだった(だから、金目当ての殺害ではないかと疑われた)。ショーペンハウア商会の解散は、負債倒産ではなくあくまでも経営者・ハインリヒの突然の死によるもの。妻(ヨハンナ)や親族なりが経営権を受け継げば解散などは必要なかった。しかし、ヨハンナは、迷うことなく経営権を(多分、超高額で)売却した。ショーペンハウア商会の営業資産を受け継いだのは、ヨハンナが生まれ育ったダンツィヒに本社を置くムール商会です。

学者になりたいという夢を諦め、何れは家業(ショーペンハウア商会)を受け継ぐ決意で貿易商人育成の私塾へと進み、それを経て就職(丁稚奉公)したアルトゥルには強い不満が残った。母よりは断然父を慕っていたアルトゥルは、母がほぼ独断で会社を整理し、父の後を継ぐことをさせなかった事に対し「俺の道を勝手に決めた親が、今度はその道を勝手に閉ざした」と、精神的異常を来すくらいに怒り心頭に発した。しかし、ヨハンナはアルトゥルの怒りに耳を貸すことなく、夫が遺した莫大な資産を元手にしてヴァイマルに豪華なサロンを開く。

アルトゥルは本気で遺産相続訴訟を起こそうとしたし、母との断絶を覚悟していたようです。訴訟による裁判になると、”下手すれば”自分の取り分がかなり目減りする恐れがある。そもそも、遺産の細部まで調査されることはちょっと不味い?ヨハンナは、それを避けるために息子に歩み寄る。「学者の道」の支援を匂わせつつ、まだ10代だったアルトゥルが仰天するような和解額を示し事を収めることに成功した。その和解額は、息子や娘が一生困らないだけの相当な金額だったが、ヨハンナが手にした額に比べれば・・・。実に強かな女性ですね。

取り敢えず、一生”遊んで”暮らしても尚、使い切れないだけの金額を手にすることになったアルトゥルに対し、二度と親に対する訴訟など考えさせないよう、ヨハンナは”殺し文句”を贈る。
「貴方には、商売人の道は向いていないでしょう?本当にやりたいのは”お勉強”でしょう?お金なんて何も心配する必要もないでしょう?」と話を”見事に”すり替えて、17歳のアルトゥルを丸め込んだ。しかも、ヨハンナが豪勢なサロンを開いたおかげで、アルトゥルはそこに集う文芸家や学者、政治家、資産家らと交遊する機会を得られて、そういう人達と交遊出来ることに対し有頂天になっていく。ま、そりゃそうだよね。元々、凄く好奇心旺盛な人だったから。妹・アデーレの人生はあまりよく分からないけれど、アデーレも、相当な家柄の夫人になったものと思う・・・違うかな?アルトゥルと同じように生涯独身だったかな?

母子の確執(2)・・・過信の戒め

資産運用

父ハインリヒの莫大な遺産を分与されたアルトゥルは、商売人への道とは訣別した。が、代々の血を受け継いで商才はあったし、専門教育や就職先での経験等により商魂は目覚めていた。自分自身は学問の道へ歩むことを決めたものの、商売、経営、そして経済の面白さには惹かれていて、関りを持ち続ける事を望んだ。

それ(商いとの関わり方)を相談した相手は母ヨハンナだった。ヨハンナの実家は、グダニスク(=ダンツィヒ)の名門貴族。その町に、ショーペンハウア商会を引き継いだムール商会がある。恐らく、実家を介してのことでしょうけど、ヨハンナは、ムール商会に対して、創業家(ショーペンハウアー家)の一員であるアルトゥルの希望を”受け入れる”ことを要求した。

投資か融資か?

アルトゥルの望みは、雇用されたり経営陣に加わることではなく「投資」。資金を提供する代わりに見返り(利益)を求めるものだった。ムール商会側としてもそれは願ったりの話。何せ、元々の資本の殆どはヨハンナが持って行ったのだから経営資金はいくらでも欲しかった。アルトゥルの申し出(投資)を諸手を挙げて歓迎したが、ヨハンナは投資させるのではなく「融資」させることに拘った。株式を買う形ではなく、また銀行資産として預けるわけでもなく(ムール商会の主業は銀行・金融業務)、あくまでもムール商会の事業に対する融資。つまり、ショーペンハウアー家側が資本参加を望んだものでなく、ムール商会側が事業資金の融資を求めたという形で話をまとめる。これだと、貸付金に対する利息は入って来るが、株式配当のような莫大な利益は入って来ない。それでも母は、不満顔の息子に対して「商売人ではなく、学者になるのでは?二兎を追うとろくな結果は生みませんよ」というような事を諭したのではないかな?そして、「商いとか投資事業は、片手間で出来るものではないですよ。」と戒めた。結果としては、先々で、それ(融資に留めた事)でアルトゥルは大いに救われる事になるわけですが、莫大な儲けを(甘~く)目論んでいたアルトゥルは、投資させずに融資に終わらせた母をまた嫌いになった。全く、頼っては嫌い、嫌っては頼る・・・極めて我が儘なお坊ちゃまに映りますね。

取り敢えず、自身が分与された遺産の多くをムール商会に融資出来たアルトゥルは、手元に残した金(それでも多額)を学資金として、ずっと望んでいたギムナジウム入学を果たす(1807年6月/19歳時)。19歳で中高教育から受け直すという事だから、学問を志す覚悟は相当なものだったのでしょう。最初はゴータ(現ドイツ・チューリンゲン州の都市)のギムナジウムに入学したのですが、その年の暮れに、母と妹との同居を希望してヴァイマルのギムナジウムに転校する。ほうら、結局は嫌ったつもりの母親を求めてしまうのですね。しかし・・・

ヴァイマルで、憧れの女優と出会ってしまう。

母子の確執(3)・・・恋を邪魔された?

ロリコンか?

先に書いてしまったけれど、アルトゥル・ショーペンハウアーは独身を貫いた。いや、”貫いた”と言うのは少し違う。独身主義者だったわけでも、(性的に)女性嫌いで同性愛者だったわけでもない。寧ろかなりの女好き。そして、アルトゥルが好意を向けた相手の中には大きな年齢差がある少女もいる。つまり、ロリコンだった可能性の匂いが漂ってくる。1899年にロシアで生まれたウラジーミル・ナボコフは、『ロリータ』を執筆して社会に強い衝撃を与えた。が、1788年生まれのアルトゥルがもしも哲学者ではなく文学者だったなら、ナボコフ以上の心理描写による”その世界”を描いたかもしれない。そしてアルトゥルならば、「男は総じて少女好きである」という論を展開して見せて、それは当たり前の事という認知をさせてしまう可能性もあった?

憧れの女性との恋愛

少年アルトゥルが女性に恋焦がれた最初は、1780年にドイツで生まれた高名な画家(人物画を得意としていた)フェルディナント・ヤーゲマンの姉で、大女優のカロリーネ・ヤーゲマン。カロリーネの生年は分からないけれど、弟フェルディナントが1780年生まれだから、アルトゥルよりも8歳以上は年上である。つまり、自分よりも年齢が上の綺麗な女性に憧れるごく普通の感覚を持っていた少年だった。尚且つ、アルトゥルは単なるファンでは終わらなかった。有り余る金を手に入れたことで、何と憧れの女優カロリーネを本気で恋愛対象相手にしてしまう。しかし、この恋は相当命懸けの恋だった。

カロリーネ・ヤーゲマンは、当時、ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国(首都はヴァイマル)の国家元首=大公カール・アウグスト(1757年9月3日生~1828年6月14日崩御)の愛人だった。正室は、同い年の(賢女として名高い)ルイーゼ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット(1757年1月30日生~1830年2月14日薨去)。

大公妃ルイーゼは、ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ9世と正室ヘンリエッテ妃の娘ですが、ヘンリエッテ妃こそ、ゲーテが最も敬愛した女性であり「大方伯妃」と称された。賢母の娘はやはり賢くしかも勇気ある女性で、ヴァイマルがナポレオン率いるフランス帝国軍に占領された時には交渉役となり、ナポレオンを相手に一歩も引かずに条約を成した。その事もあり、(ザクセンやヴァイマルにとっての)国母とも尊称されている。以上は、イェーナ・アウエルシュタットの戦いに纏わる話で、つまり、ヨハンナが、ヴァイマルにサロンを開設して移住した年の話。この時以降、ヨハンナのサロンには大勢の人が出入りするようになり、その中には大公夫妻も含まれる。そして、大公の愛人であるカロリーネ・ヤーゲマンもサロンに入り浸った。

多額の遺産分与をしてくれて、資産運用(ムール商会への融資)も手引きしてくれた母とは和解し、一緒に暮らし始めたアルトゥルも時折(学業の合間に)サロンを訪れるようになり、そこで憧れの女性カロリーネと出会う。そして猛アタックを開始する。

カロリーネの真意は分からないけれど、20歳前の金持ちのボンボンが”貢君みつぐくん”になってくれたのだから悪い気もしなかった?でも、大公カール・アウグストにとっては、自分の愛人へのちょっかい(横恋慕)だから、プライドにかけてけっして看過できない。しかも相手はサロン経営者の息子。大公には、サロンがけっして楽しいものではなくなっていく。こうなると、上客を失う事になりかねず、ヨハンナが困るわけですね。

ヨハンナは、大女優に逢いたいばかりに、頻繁にサロンを訪れるようになった”しょうもない”息子に釘を刺す。「勉強はどうしたの?そんな事じゃ私の足元にも及ばないわね」みたいなお説教に及んだでしょう。国家元首という大きなパトロンに対して、息子の横恋慕などで不快感を持たせてはサロン経営に大きな傷がついてしまう。それは避けなければならない。物凄く冷たい態度で「出入り禁止」にしたのかもしれません。

カロリーネ・ヤーゲマンとは、男と女の関係になれたかどうかは明らかになっていないが、少なくとも大女優側にとっては、すぐに忘れてしまえる程度の関係だったと云われる。でも、アルトゥルの受け止め方としては、「女優との恋を引き裂かれた」ということになり、またしても母を恨む。「サロンに入れないのなら、ついでに家も出てやる!」と喧嘩を売った。ヴァイマルのギムナジウムに転校して半年も経たない内に、現在のニーダーザクセン州にあるゲッティンゲン大学の医学部に入学する。何故医学部?いやそれよりも、もしかしたら天才?

医学部に進学したという事は、アルトゥルには、医師になるという思いがあったのでしょうけど、ゲッティンゲン大学の哲学教授G・E・シュルツェの講義に触れたことで道は決まった。シュルツェに師事する事を強く希望して哲学部へ転部する(1810年/22歳時)。此処までは、母ヨハンナが希望した事でもあったのだと推察出来る。ヨハンナは、息子が、自分や自分が最も敬愛したシラーや、サロンの上客ゲーテらと同じ文筆家になることを密かに楽しみにしていた。だからこそ、恋に逆上せ上って学業を疎かにしようとしていた時に強く戒めた。

その後のアルトゥル・ショーペンハウアーの”有名な”恋愛話

歌姫と”娘”

大女優への恋慕が儚くも呆気なく終わったアルトゥルは、学業に専念し、哲学者としての道を進むことになった。

1819年。31歳になっていたアルトゥルはドレスデンで暮らしていたが、先述の大女優と同じカロリーネという名を持つ若い舞台女優カロリーネ・メドンと出会い、”入れ込む”事になる。

当時、カロリーネ・メドンには大勢の”彼氏”がいて、アルトゥルは単にその中の一人に過ぎなかった。しかし、恋愛経験の乏しい31歳の哲学青年にとっては、歌姫カロリーネは特別な存在となる。きっかけは、カロリーネからのファンレター。逆のように思えるけど、新進気鋭の哲学者として著名人の仲間入りを果たそうとしていたアルトゥルは、資産家でもあり女性人気も高かったようです。最初は恐らく、「カロリーネ」という名前に惹かれたのだと思うけど、実際に会った歌姫の可愛らしさ(若い美貌)に対してアルトゥルはメロメロになる。性的衝動を抑えられなくもなり、本当かどうか疑われてはいるけれど、やがて二人の間には一男一女が誕生する。しかし、アルトゥルは娘を認知したが息子を認知していない。この息子に関して、自分の子という確証を何も得られなかったらしい。でも、娘は何となく自分の娘であるような気がした?

それからずーっと先の話を書いておきますが、カロリーネ・メドンと娘(名は不明)は、アルトゥル・ショーペンハウアーの遺産相続人となる。この話は、既に老いて、 「人生どうでもよくなった」状態のアルトゥルを数十年ぶりに訪れたメドン母娘がまんまと言い包めた結果と云われている。(長年、芸能会で生きた歌姫の強かさにしてやられた?)。

少女への恋心

カロリーネ・メドンとアルトゥルは、暫くの間、共に暮らしていたか行き来していたみたいだけど、実際の夫婦関係(家族関係)は皆無に等しい。娘も、実の娘かどうかは疑わしい。が、それはさて置き、アルトゥルが本当にのぼせ上ったのは、40代に差し掛かった頃に一目惚れしたフローラ・ヴァイス。

この時、フローラは12歳?13歳?後のナボコフに表現させるならニンフェット期の美少女。そのような少女に心を奪われたのだから、既に、哲学者として名声を得ていたアルトゥルも、見事に普通の男。でも、鬼畜にはなれなかったアルトゥルはフローラの成長を待った。ということは、アルトゥルは、上述した小タイトルの「ロリコンか?」には当て嵌まらないかもしれない。ロリコンは、ニンフェットのままを望み成長を嫌うが、アルトゥルは我慢強く生真面目に?フローラが17歳になる時をひたすら待ち続けた。少女フローラに対してひたすら情欲してずっと(頭の中で)愛していたことを思うならば、それはちょっと気味の悪い話となるのかもしれないが、偉大な哲学者だって少女に恋をしてしまう。仕方がないよ、好きになったのだから。ゲーテでさえ、齢70歳を超えて尚、10代の少女にラブレターを書いている。ゲーテを尊敬していたアルトゥルが少女に恋しても別におかしいことではない。

そして、17歳になったフローラに対して、アルトゥルは情熱的な?プロポーズを行った。どれだけ愛を語ったのか、募る思いを打ち明けたのか・・・でも、フラれた(笑)当時は高名な哲学者だったアルトゥルにとって、これはショックな出来事だった?プロポーズを断られるまでにも、多くの物を貢いでいることは確かなようですし、アルトゥルは、少女に手玉に取られたただのおっさんだった。でも、ゲーテもショーペンハウアー(アルトゥル)も、私生活や性愛趣向的な面が伝記として残されいるから、それはそれで驚くべきこと。日本の有名人なら、絶対に何としてでも隠そうとするでしょう。

母子の確執(4)・・・思想的対立

これも偶然にも1819年の出来事ですが、融資先のムール商会が倒産する。大慌てしたアルトゥルは、仲違い状態になっていた母をまたまた頼り、頼られたヨハンナは、人脈をフル活用してアルトゥルの融資資金全額を回収してみせる。息子は母の偉大さに感謝すべきだし、実際に感謝し切れないほど感謝の言葉を繰り返したでしょう。ところが、修正不可能なくらいの罵り合いを起こしてしまう。

ヨハンナと生前のシラーの関係は想像の域を出ません。でも、シラー家の隣にサロンを建てるなど深く敬愛していた事は間違いない。ということは、ヨハンナの思想はヤコービに近い?

ヤコービとは、当時のドイツで大きな勢力だったカント哲学に対し、それを真っ向否定する急先鋒として知られていたドイツ系ユダヤ教徒のフリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ(1743年生~1819年没)のことです。 イマヌエル・カント(1724年生~1804年没)の思想に大きく支配されていた当時のドイツでは、カントを批判し論駁を繰り返したヤコービの存在は異端。尤も、ユダヤ系ってだけで異端扱いされる風潮はあったのでしょうけど。

ドイツ観念論者の殆どがカントに傾倒し「カント哲学」という派閥的な一大勢力を形成していたので、当然ながら、カントが最も軽蔑していた”選民思想”の最たる集団=ユダヤ教徒とは対極にあった。だから、ドイツ観念論=カント哲学を真っ向否定するヤコービはカント派から敵視される。因みに、ヤコービの考え方を”宗教哲学思想”とか言うらしい。

宗教哲学と揶揄されたヤコービは、時には自らを”非哲学者”と称して、カント派哲学者を徹底的に論破して見せた。わざとらしく宗教家を気取ったともいわれます。兎に角、文才に長け(それは美才とも称された)、この人を論破するのは相当至難の業だったようです。このヤコービと最も通じ合っていたのがゲーテ。ゲーテほどではないにせよ、当時のドイツ文壇界の高名な詩人ヨハン・ゲオルク・ヤコービを兄に持っていたヤコービは、兄ヨハンを介して(6歳年下だったけど)ゲーテに敬愛の情を示していた。その事に因り、ヤコービの論派を「ゲーテ派」と呼ぶ人達もあるらしい。しかし、それは間違い。ゲーテは誰にも肩入れしていない。特定思想に縛られてなどいないからこそ「ゲーテの時代」という言葉も生まれている。

ヤコービが(ゲーテ以上に)敬愛していたのは、ドイツ啓蒙思想の大家ゴットホルト・エフライム・レッシング(1729年生~1781年生)や、ヨハン・ゲオルク・ハーマン(1730年生~1788年没)であり、同志的立場にあったのが、クリストフ・マルティン・ヴィーラント(1733年生~1813年没)、ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(1744年生~1803年没)、フリードリヒ・フォン・シラー(1759年生~1805年没)と言われている。

ヨハンナはユダヤ人ではないし、選民思想なども持っていない。寧ろ、自由自在を謳歌した人。夫・ハインリヒも徹底した自由主義者で宗教活動などとは無縁だった。ヨハンナはハインリヒとは反りが合わなかったが自由を謳歌し合うことでは馬が合った。そういう両親に育ったアルトゥルは、その反動だったのかニヒリストに近い。いや、ニヒリストそのものだった。なのでアルトゥルは思想的にはフィテヒ(ヨハン・ゴットリープ・フィテヒ(1762年生~1814年没))に近かった。

アルトゥルが哲学に強い興味を持ったのは、大学で恩師シュルツェ教授に出会ってから。まだ駆け出しの哲学生当時のアルトゥルは、シュルツェ教授から、プラトンとカントを学ぶことを強く勧められる。温故知新。やっぱり、古きを知ってこそ新しき思想の何たるかを深く理解出来るという事ですかね。 素直にそれに従ったアルトゥルは、プラトン哲学や新プラトン思想、そしてカント哲学にのめり込んだ。更に、カントの後継者と目されていたフィテヒに傾倒する。フィテヒの他にもう一人、シェリング(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・シェリング(1775年生~1854年没))にも強く惹かれ、シェリングが発表する書物を読み耽った。そして、興奮してシェリングの素晴らしさをヨハンナに伝えたりするのですが・・・

ヨハンナとしては、もう少し違う息子の姿(ドイツ観念論などに縛られない自由論者像)を期待していて、早めの軌道修正を謀った?それで懇意にしていたヴィーラントを介して、息子をヴァイマルに帰郷させる。高名なヴィーラントから「ちょっと会って話をしたいので帰っておいで」とか声を掛けられたら断る理由もない。アルトゥルは、1811年の復活祭休暇を利用して母の許へ帰郷する。ところが、此処でまた、文学論か哲学論か思想論か分からないけれど、母と息子は大喧嘩になる。母と子の考え方は真っ向から対立していて、アルトゥルは(認められない事に対して)激しく憤りゲッティンゲンに戻る。そして、これが引き金になってますますカント哲学に没頭。遂には、フィテヒが教鞭を振るっていたベルリン大学の哲学部へと移る。

晴れて?フィテヒの直弟子となったアルトゥルは、本格的に哲学者への道を歩み始める。そこそこ・・・・売れる本は出していたので知る人ぞ知る存在とはなっていったけれど、アルトゥルが本当に有名になるのはもっと後年になってから。大器晩成型だったのでしょうね。

フィテヒに師事出来るようになったアルトゥルですが、師と仰ぐつもりのフィテヒを、逆に否定する側に立ってしまい、在学中の1813年にベルリン大学を去ってしまう。まあ、人生色々ありますよね。

それから暫くは博士号取得の為の論文作成に一人没頭する。でも、最初は一人没頭ではなく、ヨハンナに救いを求めて、ヨハンナの許で論文書きを行うつもりでいた。しかし、結局はまた激しい口論となり一人ホテルに住まい、孤独に耐えながら論文を書いたと伝えられている。お金は有り余るほど持っていたし、ホテル暮らしで食事の心配も無かっただろうし、孤独って感じじゃなく、寧ろ優雅な学生さんだよね。そういう生活を送ってみたい(笑)

兎に角、何とか論文を書き上げたアルトゥルは、その論文の提出先としてイエナ大学を選んだ。恐らく、これはヨハンナが動いてくれた事でしょう。何故なら、当時のイエナ大学(=フリードリヒ・シラー大学イエナ校)に対して、最も強い影響力を持っていたのが、ヨハンナのサロンのパトロンでもあった大公カール・アウグスト。アルトゥルが恋焦がれたカロリーネ・ヤーゲマンを愛人にしていた人。そして、カール・アウグストが保護していた当時のイエナ大学の教授陣には、亡くなったシラーの他、ゲーテやシェリング、シュルーゲル他、錚々たるメンバーが顔を揃えていて、その殆どがヨハンナのサロンの客だった。結局、母を毛嫌いしていたけれど、母がいなければ何も大成出来なかった、というのがアルトゥルの人生。そして、息子を疎んじてはいたものの、ターニングポイントでは必ず息子を助けていたヨハンナは、全然悪女ではないですね。何となく、いかした・・・・母子関係ですよね。

それはいいんだけど、この記事はいつ終わるんだろう?

それ以降のことは、ショーペンハウアーの伝記を書いてるわけでもないから端折っていいよね(笑)と言うわけで、なんか中途半端だけどこの記事は終わります。ショーペンハウアーの哲学については、また何かの機会があれば触れてみるかも。

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