レオナルド・ダ・ヴィンチとイタリア戦争

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芸術家か、博学者か、それとも?

人間は、やり通す力が有るか無いかによってのみ、称賛、或いは非難に値する

この言葉を残したレオナルド・ダ・ヴィンチ(レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ/1452年4月15日~1519年5月2日)は、画家である。否、画家と決めつけることは出来ない天才的芸術家である。否、稀に見る万能な人、いわゆる博学者。且つ、数学・幾何学・物理学・化学・光学・力学・航空工学・軍事工学・他・・・数理分野を極め武器製造分野に秀でている天才科学者。更に且つ、人間の生態・人体を知り尽くした美術解剖学者・人体解剖学者。更にゞ、気象学・占星術までも知り尽くした天文学者。更に更にもっと更にゞ・・・紹介する事が困難なくらいに何でもかんでも知っていて、その知っている分野のどの学者に比しても勝るとも劣らない人。

多才とかいう言葉で片付けられるレベルの人ではない、正に、万能の神?それはまぁ褒め過ぎでしょうけど、不肖私などは知らないことが多過ぎて・・・。でも、物凄く無知だけど、『モナ・リザ』くらいは知っている。尤も、『モナ・リザ』くらいしか知らない無知人間が、こんな凄い人に関するエッセイ文など書いたら恥知らずと罵られそうだけど、敢えて書きます。恥の上塗り上等やん(笑)。

フィレンツェがイタリア国の一都市になるまでの歩み

「ダ・ヴィンチ」というのは、現在のイタリア共和国トスカーナ州フィレンツェ(※当時は、都市国家フィレンツェ共和国)のヴィンチ・ディ・ヴァル・ダルノ(アルノ河の谷のヴィンチ村)のことらしいです。

イタリア半島(主に中央部)を南から北へと縦断するアペニン山脈は、ローマが成立する以前の古代期に一大勢力を誇っていたエトルリア人達にとって、とても大切な存在だった。無論言うまでも無く、ローマ人や現代のイタリア人達にとってもそれは同様である。

エトルリア人の出自については謎な部分が多く、「元々の住民であった」「リュディア人だった」「海の民だった」その他様々な説がある。今回はそこはスルーします。
エトルリア人の主たる居住領域は現在のトスカーナ州が中心であり、隣接地域に拡大。エミーリア州へもその領域を広げた。トスカーナとエミーリアを結ぶ交通の要衝地にフィエーゾレという町がある。此処は、エトルリア人が開いた町ですが、やがてはローマのものとなる。この古代都市フィエーゾレから約5kmくらい離れた土地に入植者を連れてやって来たのは、当時の共和政ローマ執政官ガイウス・ユリウス・カエサル(=シーザー)。そして開墾された其処が現在のフィレンツェの原点となります。

フィレンツェは、ローマ帝国(西ローマ)から神聖ローマへと主権者が変わり、時が流れて1115年。神聖ローマ帝国は、それまではトスカーナ辺境伯領であったフィレンツェに対して自治権を容認した。共和政を敷いた都市国家フィレンツェは発展。フィエーゾレもフィレンツェの一部として組み込まれた。

このエッセイの主人公・レオナルド・ダ・ヴィンチは、1452年のフィレンツェに生まれ、1519年に永眠しますのでそれ以降のフィレンツェとの関りは何もありませんが、折角なので?フィレンツェのその後を簡単に紹介しておきます。

1532年から1569年までの37年間はメディチ家が統治するフィレンツェ公国。更にゞメディチ家のコジモ1世が神聖ローマ帝国の後押しを受けて大公位を得るとトスカーナ全体に支配領域を拡大しトスカーナ大公国に組み込まれます。
1737年になると、トスカーナの支配者はメディチ家からハプスブルク=ロートリンゲン家へ移り、神聖ローマ帝国の傀儡国家として1800年まで続きますが、ハプスブルク家がフランスに譲渡(1801年2月9日:リュネヴィル条約)。
フランス統治下のエトルリア王国となるが1807年にはフランスが正式併合。古代期以来ぶりに復活したエトルリアの名は呆気なく消える。ナポレオンの妹エリーズが大公として即位(1809年)してトスカーナ大公国が復活。しかし、5年後の1814年に皇帝ナポレオンが失脚。
再びハプスブルク=ロートリンゲン家のフェルディナンド3世がトスカーナ大公に即位。レオポルド2世~フェルディナンド4世と続くものの1860年3月にサヴォイア家が統治するサルディーニャ王国に併合される。
その後、サルディーニャはイタリア王国成立を宣言(1861年)。というのが、現在のイタリアまでの簡単な流れです。

名前で読み解く誕生期~謎の幼少期

話を元に戻します。通称のレオナルド・ダ・ヴィンチは、「ヴィンチ村のレオナルドさん」という意味になになります(多分)。だから、「ダ・ヴィンチ」と呼ぶのは少しおかしくて、レオナルドと呼ぶべきらしいのでそうします。

人間なら親もいるでしょうけど、父親か家の名はピエーロ。つまり、本名を更に訳すと、「ヴィンチ村のピエーロさんちのレオナルドさん」ということ。生まれた場所は、ヴィンチ村のアンキアーノというところらしい。ピエーロの前にある”セル”は、公証人(=商や法などに関する契約事に於ける公的文書取扱いを出来る専門職)を意味する言葉。ということで、レオナルドは、「公証人の仕事をしているヴィンチ村のピエーロさんちのレオナルドさん」。母親はピエーロさんちには住んでいなかった”村娘”と云われていて、つまり、レオナルドは非嫡出子(婚外子)。でも、父親(セル・ピエーロ)からは結構手助けも受けているみたいですし、非嫡出子を理由とする不利益はそれほど受けていないとも云われる。

ところで、超有名人であるにも関わらず、レオナルドには、15才くらい迄のエピソードが極端に少ない。と言うか殆ど語られていない。記録として残されたくない経験を推察されたりしているけれど、本人が語りたくないことを全く無関係の不肖私ごときが憶測で書いても詮無いこと。だから、スルーします。

目覚め

14歳から20歳までの6年間。レオナルドはフィレンツェの有名な工房を主宰していたヴェロッキオに師事。事実のままか誇大表現かは知りませんけど、ヴェロッキオはレオナルド以降の弟子を採らくなったし筆も折った。絵を描けなくなった理由は、レオナルドのあまりの才能に触れてしまい自信喪失したから。但し、彫刻家ではあり続けたという事です。

レオナルドの才能を開花させたのがこの6年間の修行であったことは否定出来ないでしょう。この間に、単に絵師や彫刻家としてのみならず、機械設計技術、機械工学、木工学、更に化学、冶金学、金属加工など工業技術分野の学習・研究に勤しめたことが実に大きかった。・・・勉強しようとすると不思議と睡魔に襲われる不肖私のような者には考えられないくらいに、勉強好きな人だったのでしょうね。羨ましいし、尊敬します。そしてヴェロッキオには、レオナルドという天才的芸術家を見出した直接の師、という事実が刻まれますから、絵師としての自信は揺らいだかもしれませんけど鼻高々でしょう。

芸術家としての名声が高まりつつあった1476年。レオナルド24歳時の記録として、同性愛者という嫌疑を掛けられ裁判の場に立たされた。嫌疑が晴れたのか、グレーだけど罪として科せられる程では無かったのかそれは知りませんけど、一時的に収監されたが長期投獄されるようなことにはならずに済んだ。ですが、生涯独身を貫いたレオナルドに対しては、同性愛者という噂が絶えません。まぁ、「だからどうした?」程度のことですかね。誰かに迷惑を掛けたわけでもないでしょうから、知らんけど。しかし、裁判以降は好奇の目に晒され居場所を失ったのか、レオナルドは家を出て彷徨った。

イタリア戦争

5~6年の空白期間。レオナルドは何もしていなかったわけでもなく、ヘリコプター理論や戦車理論その他、軍事や兵器の構造に誰よりも詳しくなった。更に、冒頭に書いたように兎に角幅広く学問した。そして1482年。30歳になったレオナルドはミラノ公に仕えることになる。ミラノで、堰を切ったように多くの絵を描き、彫刻物を作った。芸術家として開花したレオナルドですが、1494年~1495年(第一次戦争)。1499年~1504年(第二次戦争)という、二つの「イタリア戦争」を経験する。

第一次イタリア戦争(1494年~1495年)
フランス王国 vs ヴェネツィア同盟諸国(ナポリ王国、ヴェネツィア共和国、ミラノ公国、フィレンツェ共和国、スペイン王国、神聖ローマ帝国)
勝者=ヴェネツィア同盟 ※(フランスの惨敗)

第二次イタリア戦争・開戦当初の対立関係(1499年~1500年)
フランス王国ヴェネツィア共和国スペイン王国 vs ミラノ公国ナポリ王国
勝者=フランス ※(レオナルド47歳。ミラノ公国はフランスに軍事侵攻を受けて敗北。この後のレオナルドの行動が少し理解に苦しむのですが、ミラノを脱出したレオナルドは、ヴェネツィア共和国へ亡命。つまり、お世話になったミラノを捨てて敵国ヴェネツィアに身を寄せたってことは、ミラノを裏切った?って事ですかね。)

第二次イタリア戦争・仲間割れ後(1501年~1504年)
フランス王国ヴェネツィア共和国 vs スペイン王国
勝者=スペイン ※(この戦争に勝利したスペイン=ハプスブルク・スペイン王家は、ナポリ、オーストリア=ハプスブルク本家というハプスブルク三家が主体の神聖ローマ帝国は、ヨーロッパに於ける空前絶後の大帝国を形成した。)

やり通す力はあったが、完成させる能力は欠けていた?

亡命先のヴェネツィア政府より防衛基地建設を委ねられたレオナルドは、それを築いた翌年(1500年)に祖国フィレンツェに久々の帰国を果たす。目的は、サンティッシマ・アンヌンツィアータ修道院で『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』を描く為。完成後、当時のローマ教皇アレクサンドル6世の要請を受けてチェザーナへ(1502年)。

チェザーナで待っていたのは教皇の息子チェーザレ・ボルジア。ボルジア家の専属軍事顧問となったレオナルドは、主に、土木技術士として基地建設を任された。その頃、レオナルドはこれまでの世界では有り得なかったまったく新しい概念が導入された『地図』を制作。レオナルドの画期的な地図制作技術と土木技術を得たボルジア家は、軍事上の優位性を確立していく。そして、この地図技術は、これ以降の世界の技術進化に大きく寄与したと云われます。

しかし、レオナルドは軍事技術を生きる糧としていることに心悩ませていたのだろうと思います。そしてボルジア家と決別して(1503年)再び絵を描くためにミラノやフィレンツェを行き来する。レオナルドの心は、常に芸術を愛していた。この二つの都市こそが、レオナルドに芸術家としての歩みを極めさせた場所であり、其処に戻ったからこそ『モナ・リザ』に着手出来た。ただ、『モナ・リザ』は未完成と云われている。『モナ・リザ』どころか、(レオナルドと同時代を生きたジョルジョ・ヴァザーリに言わせると)レオナルドは、『モナ・リザ』以前から殆どの作品を完成し切れていない。つまり、冒頭の言葉とは裏腹で、「やり通す力が無かった」ことになる。いや、やり通してはみたものの、完成させる力が欠けていた?か、完成に満足せず全て自己評価に於いて未完成だった?真相は分かりません。

完成させることが出来なかった作品が多かったというのが真実だとして、それを私如きが何のかんのと言えるわけがない。そもそも、不肖私は何でも中途半端ですから(苦笑)

フランス

1515年。フランスは再びミラノ公国に軍事侵攻して占領してしまう。その和平会談がフランス国王フランソワ1世とローマ教皇レオ10世の間で行われましたが、レオナルドは、その席の同席者として招かれました。そして翌年、フランソワ1世は、豪華なアトリエと多額の資金を用意して、レオナルドのフランス入国を強く要請します。レオナルドは快く承諾し、その後の3年間をフランソワ1世の居城傍で過ごしますが、1519年に永眠。遺書を書いた日から9日目だった死はまさか、暗殺?ということもないでしょうけど、神でも魔王でもなく、限りある生を受けた人間だったことは死を以て証明された?

太陽エネルギーやコンピュータ理論まで理解していたレオナルドは、『ダ・ヴィンチ・コード』に代表されるようなミステリー作品の対象ともなっている。謎多き天才ですが、何から何まで、やり始めた事はやり遂げる。実にかっこいい。「やり始めたら、結果出すまでは逃げ出すな」って、言葉では言えますが相当難しい。でもレオナルドはやった。努力(根性、辛抱)に勝る天才無しって本当ですね。

で?このエッセイを書いて、不肖私は何を訴えたいのか・・・なーんも無い(苦笑)取り敢えず、多くのブロガーが触れるようなレオナルド・ダ・ヴィンチの人間的なストーリーじゃなく、イタリア半島の戦史を書いただけに過ぎないけど、この記事はこれでお終いです。

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