歴史とは?
歴史とは人間社会であり、あなたが生きている「今」である。
物理は、この世界が「無」ではなくなった、つまり何か「物」が生まれた約135億年前のいわゆる『ビッグバン』によって誕生した。
化学は、何か最初の「物」が生まれた約135億年前の或る時から約30万年が経ち、最初の物が何かしらの”反応”を示した時に誕生したと規定される(化学反応)。
生物は、何か最初の物が約97億年もの長い歳月を繰り返し、今から約38億年前の地球上に”明らかな命”を持って誕生した何物かを起源とし、それ以来脈々と続く「地球上の命の物語」と言える。
そして歴史とは、地球上の新たな命として登場したホモ・サピエンスが、初めて文化らしきものを形成した約7万年前に始まった「人間社会の物語」である。
(物理、化学、生物、歴史の時間の例えは、ユヴァル・ノア・ハラリ氏著作の『サピエンス全史』を参考にしました。)
物理学や化学の約135億年、生物が誕生して以来の約38億年と比べるならば、ホモ・サピエンス社会の約7万年は、巨大な像と蟻程度(いや、それ以上)。それ故に人間社会は常に自然(物理)の脅威に晒されていて、瞬時に消えてなくなる可能性は今この時にさえある。が、ホモ・サピエンスが知り得る限りに於いては、物理や化学を解き明かそうとしたり、それを”本気で”最大限に応用しようとした生物は、我々ホモ・サピエンスが最初である。そして、歴史の中に於ける最も重要な存在である「学問」として物理学、化学、生物学などを誕生させた。歴史が続く限りこれからも、もっともっと学問分野は派生し拡張する。
物理学や化学、生物学などの分野を得意とする人なら、歴史なんて簡単に理解出来て、社会的問題なんてすぐに解決出来そうなものだ。しかし、各時代における如何なる天才科学者でもカリスマ指導者であっても、「人(社会)の問題」を解決出来ずに積み残す。人(社会)には正解が無い。正解がないからこそ、今、ずっとこの社会が続いている。つまり歴史=社会とは、正解に迷うホモ・サピエンスの縮図であり、だからこそ歴史には様々な解釈があり、だから歴史こそが社会の問題(火種)となる。
正解がない社会の中に生きているのだから、誰にだって迷いがある。迷っていることを悩むことはない。迷っているからこそホモ・サピエンスである。生きている、命がある限り、人は迷う。迷っている間中、人は、ホモ・サピエンスとして歴史の「今」に参加している。迷いこそが人であり、迷い人が解き明かそうとするから歴史も迷う。
歴史とは??
歴史とは、人間(社会)が生きていく上に於いて都合の好い物語
如何なる「物」にも事実がある。ホモ・サピエンスは、学問することによって、「物」の「事実」はあるものの、決まっていた「事実」にさえ、後からゞ幾つもの反応(化学)を起こさせることが可能であることを知った。基礎と応用。自然と不自然。それらを融合させ科学発展させたからこそ今日の人間社会がある。各時代(各世紀)のホモ・サピエンスが、それこそ各時代(各世紀)で培った「英知」の限りを尽くし人類の時を紡いで来た。そして現代人は未来世紀の人類へと時を紡ぐのだが・・・
ホモ・サピエンスは、自分たちの7万年に及ぶ歴史をも、「見方を変える」「解釈を加える」などを施し、事実を応用(編纂?)可能な学問と化した。”真実の時”は見え辛くなり、『事実は一つではない』『後から動かせる事実』という「勝者にとって(時には、敗者にとっても)都合の好い事実」が歴史として残る。「事実」はもう殆どどうでもよくなり、各国、各自にとって都合の好い状況、つまり、利用価値のあるもの=歴史となった。利用価値のない歴史は忘れ去られる。利用価値があるから学ばせる。
歴史はホモ・サピエンスの歩みであり、刻んだ時の事実である。が、各国、各自の見方、利用方法によって同じ時の事実なのに「語られている」ことは全く異なる事ばかり。要するに、ホモ・サピエンスが同じ価値観を持てないことの証が歴史の多様化と言って言い過ぎない。自分が知っていること、知らされた事だけが真実であるかのようにホモ・サピエンスは頑なに信じる。それを語りではなく騙りだと揶揄されるとホモ・サピエンスは怒りの感情に包まれる。一つの事実に対して違う歴史を持つ者同士が争う。それが戦争へと発展することもある。
歴史は学問ではなく、ホモ・サピエンスが辿って来た時の道である。道に迷ったら、一旦戻って正しい道を探し直さねばならないが、次々に歴史を書き換えられて正しい道標が消えて無くなっている。正しい道標を持たない歴史をいくら学ばせても無駄である。歴史は教育科目として強要してはならない。他人に惑わされない確固たる自分というものをまだ築けていない少年少女に対して、「歴史はこうであった」ような決め付け教育は百害あって一利なし。
歴史とは???
歴史とは、今の事実を知り、今の事実のみを残す為に必要な知恵を教えてくれるバイブルである
「過去を知るには未来へ向かう必要がある」が、「過去を必要としない、今という事実だけが必要とされる未来」を作れるなら、その時に初めて歴史は正解を得ることが出来る。つまり、歴史は、「自分たちが命を持っている今こそを最も大切に生きなければならない」という事実と、「自分たちが生きている今の事実を、今を知らない未来の誰かに変えられてはならない」という事実を知るために学ばなければならないものであり、歴史を知ることは今を知ることである。
今を大事にし、今を正確に次世代へ繋ぐ。その重要性を本当に分かってこそ、過去の歴史を正確に検証出来る。今の時代が、過去の歴史を都合良く”騙る”ことが国家的に許されている現状を看過してはならないと思う。日本にも、自国を「神の国」の如く騙っていた時代があった。そういう事をやると、良くないことが起きる。
今、中国や韓国、北朝鮮は、明らかに歴史を騙り国家の利を得ようとしている。そういう事をやっていると必ず良くないことが起きる。彼の国の為政者や国民は、その事に気付けないでいる。他所の国の事だからどうでもいい事だけど、隣国に何か良くないことが起きるとその影響を受けることを避けられないのだから、何か本当に同じ価値観を共有し合える手立ては無いものだろうか。
兎にも角にも、「歴史を学ばない」ということは褒められた事ではない。日本では小学校でも中学校でも、大概の学校では文科省が認定した教科書を用いて歴史教育を行っている。国民として最低限知る権利を持ち義務教育を受けている学生の彼らにとって分かりやすい内容で書かれている。が、あくまでも日本社会で生きる為の日本国家が望む常識を学んでいるだけであって、アジアの他の国々や欧米では違う内容の歴史であって何ら不思議じゃないということは既述の通り。同じ歴史の筈なのに、世界にはそれぞれ別の”事実”が教育されているという事こそを全日本人が知っておくべきだ。
歴史は、教科書教育の対象であり授業で学ぶ。その事に因り、「教科書に閉じられた(教科書から発せられる)専門的な知識」と捉えている人もいるだろう。専門性を極めたい人には必要な”勉強(学習科目)”であっても、自分が生きていく上では必要がない。という風に考えている人もいるだろう。学校や先生や勉強自体が嫌いだからという事が、歴史(社会)を嫌うきっかけになったりもする。単純に、歴史(社会科)が難しくて苦手という人もいないわけではないだろう。でも、歴史や社会はただの”学習科目”ではない。
日本には、「歴史が嫌い(関心がない)」「社会が嫌い(関心がない)」という言葉を平然と口にして、そのことを恥とも何とも思わない人が実に多い。しかし、歴史や社会を嫌う(関心がない)人が多いということは、国家としての恥だけではなく人としての生活に於いて大きな損失だと思っている。歴史や社会に関心を持たない人の多さが、政治レベルを低下させる。政治レベルが落ちれば生活に悪影響を及ぼす。当たり前のことだ。
歴史を知らなくても生きてはいける。が、人が生きている限り歴史は続き、歴史(社会)をどんなに嫌っていても歴史(社会)の一員であることからは逃れられない。つまり・・・
歴史(社会)とは、あなたや私が生きている「今」である。
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