小説『ロリータ』と「ロリータ・コンプレックス」

LOVE & EROS

ロリコンとベドフィリア

親は、子の成長を喜ぶ。教師は、教え子の成長を喜ぶ。子どもの成長過程を見るのは嬉しいものだ。ところが、”子ども”が成長し大人への階段を上っていくことを忌み嫌う者達が存在する。「子どもには、いつまでも子どものままで居て欲しい」と願う気持ちは分からないでもないけれど、それが性癖とか歪んだ感情とかを伴うのがロリータ・コンプレックス。略してロリコンだ。

ロリータ・コンプレックスという言葉の”コンプレックス”は、劣等感のコンプレックス=inferiority complexとは別物で観念の一種。ロリータ・コンプレックスを略した言葉である”ロリコン”はいわゆる和製英語。欧米にロリコンという言葉は存在しない。欧米社会では、ベドフィリア(児童に対する性趣向)という言葉に括られる。ベドフィリアの性癖を持つ人はベドフィルと言われ、ベドフィリア対象年齢の上限は11歳と定義付けされている。という事はですよ、極端な解釈をすると欧米に於いては12歳以上との性行為は罪ではないのか?

オランダには、相手が12歳以上であれば罪には問われないという噂があるらしい。オランダに行ったことはないので本当かどうかは知りません。本当だとしても極端な例でしょう。欧米でも、18歳以上を成人年齢としている国が大半。という事ですから、欧米諸国でも成人が未成年との性行為に及べば罪に問われる筈です。

でもねェ、欧米の女子中学生年齢とか映画やTVドラマで見るだけでも「少女」という感じには見て取れません。普通に”若い”女性です。ベドフィルが異常者と既定されていることは尤もなことでしょうけど、性的にも精神的にもごく普通の男性が、ベドフィリア対象年齢以上のティーンに対して性的感情を覚えることはあると思う。そして、お互いの恋愛感情が一致するなら性行為に及ぶこともあると思う。

ティーンと大人の恋愛などを「有りかもね」などは一般的には正しい考え方では無いにせよ、そういうことを世に問うた一例が、ウラジーミル・ナボコフ著の『ロリータ』です。

ニンフェット

さて我が国で言うところのロリコンですが、一般的には、ウラジーミル・ナボコフが、小説『ロリータ』の中に用いた言葉「ニンフェット」(9歳~14歳の年齢の少女達)を性的対象とする成人男性を指すと定義付けされている。
即ちロリコンとは、“特定年齢層”の相手にのみ性愛感情を覚える偏執狂ということになります。好意を持った相手の成長を忌み嫌い、大人に近づくにつれ興味を失くしていくロリコン男には、相手の成長を止めようとして極端な行動に出る恐れもある。 

「ロリコン」も「ベドフィル」も、特定年齢層の少女だからこそ好意を持つ。故に、愛情を注げる時間範囲が異常に狭い=心の容量が小さい。それを隠す為に様々な嘘を吐く。嘘を吐く習性を持つことを含めて、その存在は社会悪以外の何ものでもない。

「成長」を嫌い、心の許容範囲が狭いことは危険です

小説『ロリータ』

ウラジミール・ナボコフの著書『ロリータ』では、先に仕掛けてくるのは12歳の少女ドローレス。大人(主人公であるハンバート・ハンバート)の心を見透かして大人の心を奪いに行く。そして大人はまんまと心を奪われる。何の覚悟もないまま、ただの穢れた性愛感情で少女は大人を相手に出来るし大人も自分に都合好く少女を相手に出来る。という事をナボコフは描き「それは悪か?」と世に問うた。

小説ロリータをもっと深読みするならば、ドローレスが自分の意思でこちらに近付いて来るように仕向けたのは、実は少女偏愛主義者のハンバート・ハンバート。

彼は、少年の頃に従姉に恋をする。その恋はハンバートを性に目覚めさせるきっかけとなったが、その早過ぎる性の目覚めを親達に危険視されて従姉との仲を引き裂かれる。ハンバートは、従姉の体(少女の体)を想い夜も眠れない状態になるのですが、従姉は突然死亡する。ハンバートにとっての性欲を伴う本気の初恋は、二度と果たせぬ恋(と言うよりは性欲)つぉいて呆気なく終わる。そして、その時のショックからなのか、彼は、当時の従姉と同じ年齢層の少女以外には興味を持てなくなってしまう。少女偏愛主義者としてのハンバートの人格はこのようにして作られた。

普通の恋愛が出来難くなったハンバートは、年齢を重ねていったある日、理想の少女、12歳のドローレスと出会ってしまう。彼女の傍に母親しかいない事を知ると、ドローレスを手に入れる目的で母親と結婚する。義父という立場を手に入れた彼は、まんまとドローレスに近付けた。

妻(=ドローレスの母親)とのセックスはあくまで儀礼的。しかし、その行為をもドローレスに感じ取らせて性的興味を持つように仕向けて行く。そして、母親に対してドローレスが嫉妬するようにも仕向けて行く。つまり、自分に対して恋するように義娘をコントロールしていく。ドローレスは、義父の策略にまんまと嵌まり、父親としてではなく男として強く意識するようになる。

ハリウッド映画版のロリータでは露骨な性描写にこそならないのですが、この小説をモチーフに創られたロシア映画では、出演した少女に対してそこまでやらせるのか?!と思わせる程、濃厚なシーンが描かれる。ですが、小説を忠実に制作すると当然の内容?ロシア版の映画では、母と娘と男(夫であり義父である)三人で愛し合うエンディングで終わったような記憶がある。(※字幕もないロシア映画。でも内容は十分に理解出来たし、全てを察知した母親の哀しみとか、まぁ色々と面白かったけど?)

小説に戻ると、愚かな(それも作戦?)ハンバート・ハンバートは、ドローレスへの想いを日記に書き留めていく。そして妻(つまりドローレスの母)にそれを知られる。妻は、ドローレスの身の危険を察知してサマーキャンプ中の娘にそれを知らせようと電話ボックスへ走りますが、交通事故に遭い亡くなります。

“邪魔な妻”の存在が消えた事で、ハンバート・ハンバートにとっては待ちに待ったドローレスとの二人生活が始まる。

ところがドローレスは、サマーキャンプで初体験を済ませていた(つまり非処女となった)。セックスに対して強い興味を持ってしまったドローレスは、積極的にハンバートを誘う。そして、義父と義娘は穢れた関係へ・・・

やがて、異常な関係が外部に漏れる事を恐れたハンバートは、ドローレスを車に乗せてアメリカ中を旅する。が、ドローレスが大人になっていくにつれ愛情は冷めていく。ドローレスの側も、この関係はおかしいとようやく気づき、別の男と浮気したり、自暴自棄の状態へ。そしてある時、ドローレスはハンバートの元から消えます。

それから数年後、大人になったドローレスと偶然に再開するハンバートは、母親そっくりになったドローレスを変わらず愛している自分に気付く。これでようやく小女性愛趣向から脱却。結婚を申し込んだハンバートですが、ドローレスには、ヤク中のヒッピーが付き纏っていた。(付き纏っていたというより、ドローレスの身上に同情して世話していた男?)。ハンバートは、そのヒッピーに対して憤慨。結局、その男を射殺して自首。

という結末なのですが、小女性愛趣向に陥ると、人生も狂うという事をナボコフは社会に伝えたかったのか?ナボコフ自身もロリコンだったとしか思えないけど、いやどうかな。ロリコンじゃないからこそ書けた作品なのかもしれない。

ニンフェットしか愛せない男達はごまんといる

出版当時は異端作品と見做されたが、現在、ロリコン男は少なくない。少なくないどころか、ロリコンとしての欲を満足させるために職を選んだような男たちが大勢いる。ハンバート・ハンバートの結婚行動を理想的などと思っている男だってきっといる。この小説や映画化された作品は、ニンフェットしか愛せない男達に対して、禁断の扉を開いたのかもしれない。

娘の行動を制し切れない(叱れない)父親は、『ロリータ』を一読するといいかもしれません。少女の好奇心は父親の想像を遥かに超えている。そういう事を分かった上でしっかり躾けないと、誰の娘だって危険に晒される。世の中には、異常性癖を隠し持つ男はごまんといるのだから。

女性が最も溌溂とした美しさを放つ時期がニンフェット年齢期であると言えなくもないが、思春期真っ只中のこの年齢期に、日々成長しない道理がない。その成長を嫌うという事自体に無理がある。無理を承知でその年齢層に限って恋するのでロリコン男は異常で危険。少女の側も、ロリコン男を単に少女しか愛せない愚かなダメ男と甘く見てはいけない。くれぐれも絶対に近寄ってはならない。

ところで、最近の日本映画にこれも小説を原作とした作品である『流浪の月』がある。観ましたが様々なことを考えさせられる作品ですよね。単に、主人公のロリコン性を描いただけではなく、二次性徴出来ない苦しさを描いただけでもなく、また、ロリコン男に愛を覚えた少女の大人になっても消えない愛の深さでもなく、ろくに知りもしない他人を「噂」だけで追い詰めていく社会(世間)の怖さ。それが一番印象に残ってしまい「イヤな世の中だ」と思わされる。でもなかなか鋭い作品です。

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