日本海

時を紡ぐ~Japan~

「日本海」と国際表記される始まりは1805年

文化2年(=1805年)。当時の帝政ロシア海軍提督クルーゼンシュテルン(1770年生~1846年没:本名イヴァン・フョードロヴィチ・クルゼンシュテールン)は、日本海を「日本海」と呼称した最初の人になったと記録されている。

何も、日本が勝手に日本海と名付けたわけではない。日本人の多くから見れば日本海は”北の海”。韓国・北朝鮮人から見れば”東の海”かもしれないけれど、ロシアのクルーゼンシュテルンから見ればそういう事はどうでもいいこと。当時最もポピュラーな海図に「日本周辺海図」が記されていて、それを基にして日本海と呼称した。それが世界の公式名称となった。ただそれだけの事である。そもそも、北海道や東北の人から見たら”西の海”かもしれないのに、国際表記の海の呼称に対して、紛らわしい方角を用いられるわけがない(笑)

「日本海」名付けの祖、ラ・ペルーズ伯の探検史

海軍時代

当時、世界各国の海軍や貿易商が利用していた地図(海図)を作成した人は、ラ・ペルーズ伯(1741年生~1788年消息を絶つ:本名ジャン=フランソワ・ド・ガロー)。フランス王国海軍の将軍、且つ世界的冒険家として歴史にその名を刻まれるラ・ペルーズ伯は、15歳でフランス海軍に入隊し、七年戦争に従軍。北米大陸で英国軍と戦うも捕虜となって投獄された。釈放された後に再び英国軍と交戦する機会を得て、その時の大勝利に貢献したことで准将に昇級。という事なので結構毛並みの良い家柄の出身。軍隊デビュー時から相当上の階級だったのでしょう。

1782年に、ハドソン湾沿岸の戦いでフランス軍の勝利を動かぬものとした。その功績により本国へ召喚される。その時、既に41歳となっていたのですが、クレオール(植民地から帰化した人)の若い女性と結婚します。

ラ・ペルーズ探検隊(太平洋探検隊)

当時の国王ルイ16世の側近となり、1785年に太平洋探検隊を率いることを命じられます。この探検隊は後に「ラ・ペルーズ探検隊」と名付けられますが、500トン級のフリゲート艦2隻(「ブッソール号」と「アストロラブ号」)を与えられ総勢114名が探検に参加した。その内の10名は軍人とは関係ない科学者や文化人だったらしい。ラ・ペルーズ伯はブッソール号に乗船し、アストロラブ号の艦長は、ハドソン湾沿岸の戦いでラ・ペルーズ伯の腹心として活躍したド・ラングルです。

ナポレオンの幸運

逸話として、探検隊に参加を希望したがまだ若いという事で選に漏れたのが、当時16歳のナポレオン・ボナパルト。もしもナポレオンが探検隊に参加出来ていたら確実に死んでいた。そうするとフランスの歴史、と言うより世界の歴史が大きく変わっていた。人の運命は分からない。と言うか、たった一人の運・不運が世界を変える。実に面白い。

ラ・ペルーズ探検隊は、1785年8月1日にブレストを出航。ホーン岬を回ってスペイン領チリを調査します。1786年4月にイースター島上陸。その後北上してハワイ諸島へ。彼らは、マウイ島に上陸した最初のヨーロッパ人となった。その年の6月にはアラスカへ入り、セント・イライアス山近くに上陸して探検する。ところが、7月13日に、2隻のロングボートと積み荷、及び21名の乗員がポール・デ・フランセ湾(= ガロ―の命名。現在はリツヤ湾)で遭難する。

9月14日にモンテレイへ到着。スペイン及びフランチェスコ会によるカリフォルニア植民地での原住民(インディアン)に対する酷い扱いを批判的に記しています。

それから100日を要し太平洋を横断。アジア最初の上陸地はマカオだった。彼らはアラスカで手に入れた毛皮を売り、その売上金は乗員との間で分配されたらしい。

翌1787年4月9日にマニラに立ち寄り補給を済ませた後、アジア大陸北西岸を目指します。東シナ海の大陸側沿岸部を周遊した後、奥蝦夷(=樺太:ロシア名サハリン)へ到達。

奥蝦夷の住民が描いた、奥蝦夷、蝦夷(=北海道)とタタール沿岸(=アジア大陸本土)の地図を頼りに航海を進め、樺太とアジア大陸の間の海峡(=間宮海峡:タタール海峡とも呼ばれる)を調査しようとするが、事情によりその海域の通過を断念。進路を南へ変えて宗谷海峡(=後にラ・ペルーズ海峡と名付けられた)を目指します。

レセップスの幸運

アイヌ民族と出会った一行は千島列島を探検。1787年9月7日にはカムチャツカ半島のペトロパヴロフスクへ寄港します。この地ではロシア人とカムチャツカ半島人の歓待を受けたとの事で、まだフランスとロシアの仲は良好な時代だったのでしょう。此処で探検隊から離れたのが、後にスエズ運河を開発するフェルディナン・ド・レセップスの叔父で、当時の駐クロンシュタットのフランス副領事ジャン・バルテルミ・ド・レセップス。下船して、1年がかりでシベリア~ロシアを横断してそこまでの探検記録を持ち帰ったレセップスは、ラ・ペルーズ探検隊ただ一人の生存者となり、この探検を『レセップスの旅行記』というタイトルで出版する。(本来は、『ラ・ペルーズ探検隊随行記』では?と思うけど)。

サモアでの悲劇

隊は、新たな任務命令書を受け取り、ニュー・サウス・ウェールズ(イギリスの入植地)の調査へ向かいます。 

1787年12月6日に現在のサモア諸島へ到達。
しかし、サモアを離れる直前に給水に向かって浅瀬で動けなくなったボートをサモア人に襲撃されて、アストロラブ号の艦長ド・ラングルと科学者のラマノンを含む12名が殺されて20名が負傷した。
ラ・ペルーズ伯は上陸隊の生き残った者達から悲報を聞いたが、島民への報復攻撃を自制してトンガへ向かう。更にオーストラリアへと探検を続け、1788年1月26日には、ボタニー湾へ入る。

英仏の握手

大英帝国の海軍提督アーサー・フィリップ率いるイギリス艦隊の主力部隊が、 (新植民地建設を目的として) ポート・ジャクソン(現在のシドニー港)へ向かっていることをガロ―は知る。七年戦争で激しく戦った英国海軍だったが、この時のイギリス人達はラ・ペルーズ探検隊に対して礼節を以て接し、ラ・ペルーズはイギリスによるポート・ジャクソン入植情報を詳しくは記さなかったと伝えられている。逆に、競争意識を煽るような報告であったなら、フランスはイギリスとの間に、オーストラリア争奪戦争を行っていただろうし、オーストラリア大陸は、北米大陸に於けるアメリカ合衆国とカナダのような状態だったとも考えられる。そうすると、パプアニューギニアやインドネシア辺りの情勢も今とは違うものだったかもしれない。が・・・

まだ探検を続けるラ・ペルーズ隊は、自分達の記録と手紙を(先にヨーロッパへ戻る)イギリス艦シリウスへ託します。昨日の敵は今日の友になれたって事でしょう。その手紙はちゃんとパリに届いたので、此処までの記録がほぼ正確に知られている。

ラ・ペルーズ探検隊の最期

3月10日に出航した隊は、ニューカレドニア島、サンタクルーズ諸島、ソロモン諸島、ルイジアード諸島、そしてオーストラリア西岸~南岸を目指します。最後の手紙には、1789年6月には本国へ帰国することが出来るだろうと綴られている。しかし、ラ・ペルーズ探検隊一行全員がその後の消息を絶った。 

フランス王室は直ぐに捜索隊を派遣しますが、しかし、フランス本国では直後に革命が起きてラ・ペルーズ探検隊捜索は打ち切られた。後に分かった事実は・・・

アストロラブ号もブッソール号もサンタクルーズ諸島の一つヴァニコロ島の暗礁で難破した。ブッソール号は大破した。アストロラブ号は積み荷を降ろして辛うじて沈没は免れるが、ブッソール号の生き残った乗組員達は島の先住民によって虐殺された。先住民の話によると、それでも生き残った者達がいて、彼らはアストロラブ号の残骸から2本マストの船を造り、9ヶ月後には西へ向けて出発した。その後の彼らに何が起こったかは誰も知らない。

現在、ヴァニコロ島のラ・ペルーズ探検隊難破地点付近には記念碑が建てられている。

「日本海」

ラ・ペルーズ伯ことガロ―将軍は、この探検の中で『日本周辺海図』を描いた。この海図は、世界の海軍や貿易商、冒険家達の重要な参考書となり、それをロシア海軍も採用した。そして冒頭に書いたように、クルーゼンシュテルン提督は日本海を「日本海」と名付けた。

発狂する韓国

東海?!

ところがだ、由緒正しい経緯で国際的に認められ、世界中の”正規地図”に「日本海(Sea of Japan)」の表記がなされているのに、韓国(北朝鮮も?)は、「その海は東海だ!」と世界に向けて喚き散らしている。バカじゃなかろうか?

韓国国内で、そこを「東海」と呼ぶこと自体にはなんの問題もない。例えば、日本人がイギリスと呼ぶ国は世界の人々には何処の事だか分からない。国際標準では「ブリテン」と呼ぶべきだ。中国に対しては支那と呼ぶ方が正しい。等々、国内だけで通用する地名・国名呼称は日本にも多い。日本で「東海」と言えば、愛知県を中心とする東海地方の事だが、韓国では日本海を指す。それはそれで構わない。目くじら立てる程のことじゃない。

ところがだ、韓国は「日本海は誤りだ。東海が国際的に正しい」と吹聴する。世界標準とされている「日本海」の呼称を誤りとするのは愚かである。ところが、それが単純に馬鹿では済まされない状況になっている。韓国は、(世界各国の)地図製作組織・企業などに対して、「日本海」ではなく「東海」を使用するように圧力をかけている。その依頼(圧力)理由がまた馬鹿げていて、「日本海という呼び方は、日本帝国主義の象徴であり、日本の敗戦と共に終わらせる名であるべき」というもの。

「日本海という名は日本人が勝手につけた」という韓国の主張が真っ赤な嘘であることは明白。だが、その嘘を押し通して、韓国は日本海という名称を抹殺しようとしている。

反日・嫌日=愛国という狂人国家の妄言

韓国人は、韓国の東の海が日本海と呼ばれていることを知り、「何故、韓国の”隣の海”・・・・・・が日本のものなのか」という馬鹿げた考え方を持った。名前が日本海であっても、その中は日本とロシアと韓国と北朝鮮の領海が設定されている事は小学生でも知っている。日本人や日本国家が、日本海全体を「日本の海」と主張した事など無い。インド洋や南シナ海や東シナ海などと考え方は一緒。しかし韓国人は、国際的地名に「日本」が記されていることに対して異常に激しく反応し発狂する。世界中が日本海と認識する海を、日本海ではイヤだと言って駄々を捏ねる。赤子か?

東海だけでは主張が認められないことを薄々感じている韓国は、「日本海と東海の併記」を言い出した。東海という単独表記が認められないのならば、「日本海且つ東海」と記せというわけだ。しかし、一度でも併記がなされたら、次は必ず単独「東海」を言い出す。反日・嫌日の発狂民族は、何でも自分達の言い分が通るものだと思い込んでいる。ほんと粘着質で気味が悪いのである。

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