パルミラの女王ゼノビアと帝政ローマの戦い(2)~王妃から女王へ~

西アジア史

妻としてのゼノビア

才色兼備のゼノビアは、自らが指導者(女王)となって理想の国家を成す為に夫(と、前妻の子)の殺害を企てて実行させたのか?この疑問に対しては、ゼノビアを研究し尽くしたであろう男(E・ギボン氏)の記述に頼るしかない。尤も、ギボンが生まれる千数百年も前に亡くなっている女性なので、ギボンと言えども、確証を得ている筈はない。但し、厖大な史料を検証されて『ローマ帝国衰亡史』を書かれているので、ゼノビアをちょこっと知った程度の人達よりは遥かに詳しいでしょう。

ギボンに由ると・・・

身分相違?

オダエナトゥス自身は微賎びせんに身を起したと書いている。つまり、生まれながらの身分としてはゼノビアの方が遥かに勝ると言いたいのか?しかしながら、祖先はそうであったかもしれないけれど、オダエナトゥスの父はパルミラの長官を務めた身分。そしてオダエナトゥスも生まれながらにしてローマの市民権を持ち (セウェルス朝時代に市民権を得た氏族だったようです)、やがては東方世界の支配者にまで経上ったへあがった人物。単なる成り上がり者ではけっしてない。しかも、この時代のローマは複合民族社会。ラテン人以外でも、ローマ市民となり働きが優れていたら皇帝に成ることも叶う正にドリーム国家。現代の米国以上に「力と金と運さえあれば」何だって夢見ることが可能な国。微賎に身を起こしたという表現通りだとしても、ローマ人か非ローマ人かだけで比較するならば、夫はローマ人だった。妻(ゼノビア)はギリシア・マケドニア系アラブ人で、エジプト王家の末裔を自称していた。婚姻前のゼノビアがローマの市民権を得ていたかどうかは分からないけれど、賢明なゼノビアですから、生まれや身分などで夫を測るような下衆な女性では無かった筈です。

男勝りの女豹

ところでギボンは(と言うより、日本語訳者でしょうけど)、オダエナトゥスを梟雄きょうゆうと称している。日本で梟雄と称される歴史上の人物は、斎藤道三や織田信長、松永久秀、北条早雲など、一癖も二癖もありそうな、そして非道であった武将達のイメージです。蛮勇ではないけれど、ちょっと危険な男?
戦争が無い時のオダエナトゥスは、専ら狩猟にばかり夢中で、その対象は獰猛な獅子、豹、熊(砂漠地帯にそれらはいるのかな?)などだった。ゼノビアもこのような危険な”遊び”が大好きな男勝りの”女豹”です。どんな疲労も物ともせぬ鍛え抜かれた肉体、乗物一つにしても、有蓋馬車ゆうがいばしゃなどは大嫌いで、決まって軍装で直に鞍上する。ときには軍の先頭に立ち、何マイルとなく過酷な砂漠で徒歩行軍を行った事すらあるらしく、女性とは言え兵達からは指揮官として絶大な信頼を受けていた。

夫婦共にあっての成功

兎も角、この夫婦は最強の軍事パートナーだった。

皇帝ウァレリアヌスを捕らえ、奴隷にしたか、惨めな処刑の最期を与えたか、その何れもか。それは分からないが、ローマにとって憎悪すべき大敵サーサーン朝のシャプール1世を一度ならず二度までも追い詰めて輝かしい勝利を収めた。無敵の夫婦は、麾下の軍、諸属州の人々にとって神の如き崇められる立場となり、この夫婦以外の如何なる君主も認めない雰囲気が民衆の間に出来上がった。ローマ元老院も、そして”新皇帝”ガッリエヌスも、正式な共同統治者として承認せざるを得なくなり、オダエナトゥスは東方皇帝的立ち位置となった。嘗て、クレオパトラ(7世)を手に入れた事によって圧倒的優位な位置づけとなったガイウス・ユリウス・カエサルのように、自分(=ゼノビア)を妻としたことで、夫(=オダエナトゥス)が(単独)皇帝位に上り詰めることをゼノビアは夢見ていた(信じていた)とも考えられる。何故なら、それは、幼い頃からの憧れであったクレオパトラでさえ成し得なかった事だから。なので、夫を暗殺する首謀者になるかな?

オダエナトゥスを殺害した甥に当たるマエオニウスは、粗暴で仕来りや礼儀を知らない男だった。それで、狩猟中に許されもしていない一番槍を投じた(これは結構重要で、戦と同じように、一番槍=先陣は必ずリーダーが指名するというのが万国共通の仕来り)。これを窘めたオダエナトゥスを無視するように、別の時にもそのような無礼を働いた。それで軽罰として馬を奪い短期間軽禁固を科した。これを屈辱的仕打ちとして根に持ったマエオニウスが、叔父(オダエナトゥス)と従兄弟(ヘロディアヌス)を刺殺した。すぐさま捕らわれたマエオニウスは、弁明の機会を与えられずにゼノビアは処刑を断行。この時点でゼノビアと実子ウァバッラトゥス以外には後継者がいない。だから、自分自身が皇帝(女帝)に成ることを夢見たゼノビアが、マエオニウスを唆して凶行に及んだと見る人は少なくない。けれども、いくら男勝りのゼノビアであってもそれは考え過ぎでしょう。ギボンも、そんなこと迄は書いていない。

梟雄の夫にとって、これ以上ない妻。そして、向上心の高い妻にとって、これ以上ない夫。お互いに、ベストパートナーだったように思えます。

女王(君主)としてのゼノビア

パルミラの最大版図は、傑出した女王ゼノビアによって達せられた

東は小アジア(アナトリア半島)、エジプト。西はペルシアの一部までという広大な領域を支配して、正に、セレコウス朝時代のシリアの栄光を取り戻しつつあった。亡き夫、オダエナトゥスの遺産を引き継いだ結果とは言うものの、ゼノビアは、ただ引き継いだのではなく、(その権限を奪いに来た)ローマ軍相手に幾度となく勝利を重ね、完膚なきまでに叩きのめし、”王座防衛”をして見せた。そして、夫の時代以上の領土を得て、それを約5年間守り続けた。
逆に、叩きのめされた側のガッリエヌスはゼノビアを認め、恐らく、女王ゼノビアを、オダエナトゥス同様の共治者として調印する腹づもりもあったと考えられる。しかし、いくら敏腕君主だと言っても相手は女性。この事には、ローマ男達のプライドが許さなかったのでしょう。そして、ガッリエヌスは、ゼノビアを共治者とする事を果たさないまま暗殺される。

そもそも、ガリア帝国には敗北し、ゼノビア率いるパルミラにも敗北したガッリエヌスの命運はほぼ尽きていた。こうなる運命(暗殺)は避けられなかったとも言える。が、仮に女王ゼノビアがガッリエヌスとの共治者としてローマに君臨する事があったなら、その後のローマの歴史やヨーロッパの歴史は大きく様変わりしていたでしょうね。女性君主が珍しくない時代がもっと早く到来し、それが長く続いた事でしょう。

ガッリエヌスが暗殺されて以降、パルミラは独立独歩の道を歩みローマとは一線を画した。ギボンは以下のように書いている。

女性による統治といえば、とかく下らぬ感情問題による紛糾が付き物だが、彼女のそれは実に堅実、終始聡明きわまる施政方針によって導かれていた。恩赦の方が得策と見れば、怒りを抑えることも出来たし、また懲罰が必要とあれば、憐憫の情など簡単に殺すこともできた。節約を旨とするあまり、貧欲の譏りを受けたこともあるが、ひとたび必要と見れば、実に気前よい剛腹さを見せた。

このような態度で統治に臨んだゼノビアに対し、アラビア、アルメニア、ペルシアなど諸隣邦も彼女の敵意を深く惧れ、寧ろ、進んで盟邦関係を求めたとされる。そして、夫の時代には向かえなかったが、彼女自身が最も欲した”祖先の領土”であるエジプトまでを支配する事になる。これに対して、ローマの新皇帝に成ったクラウディウス・ゴティクスも容易に手出し出来ずにいた。更に、クラウディウスが陣中で病死した後を受け、弟のクィンティッルスが皇帝位に就いたが、すぐさま、ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスに倒されて、そのまま、アウレリアヌスがローマ皇帝の座に就く(270年)。そして272年。ローマ皇帝アウレリアヌスは、女王ゼノビアにとって最大、最強の敵として現れる。

(続く)

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