パルミラの女王ゼノビアと帝政ローマの戦い(3)~ゼノビアの大敗北とアンティオキア~

西アジア史

ゼノビアでさえ、過信する

ゼノビアは稀に見る君主だった。その事について何も疑う余地はない。しかし、勝ち過ぎた。

聡明且つ冷静で感情に流される事の無かったゼノビアを以てしても、自身と自国を過信した。つまり、パルミラこそがローマに代わる東方帝国、自分こそが東方皇帝に相応しい(自分以外にいない)という思いが強くなり過ぎて、帝政ローマを過小評価してしまった。もしもゼノビアに、「ローマにはもう何も頼るべき魅力がない。」という驕りではなく、「ローマにはまだまだ学ぶべきものが多い。」「ローマには無限の可能性があり、それを引き出す為に東方から協力する。」という思いがあったなら、その後のパルミラは、本当にローマ世界の中心的存在になれただろう。そして、やがて其の地はローマではなく『パルミラ』という国家名称になっていた可能性もある。現に、後のローマ(東ローマ帝国)を人々は『ビザンツ帝国』と呼んだのだし、やがて其処ら一帯は『オスマン帝国』となり、今では『トルコ共和国』になっている事実があるのだから。

ゼノビアが、ローマに対してもう少しだけ敬う心や共存共栄の思いを持ち続けられていたならば、彼女の憧れであったクレオパトラ(7世)に取って代わり、全世界、全歴史に於ける、唯一無二の美皇帝として女性達の憧れの的であり、男性達の理想の女性であった筈。でも、その可能性は呆気なく消えた。

所詮は、独裁帝国・・・

ガッリエヌス帝もその後を一瞬だけ受け継いだ息子サロニヌス帝も、そしてクラウディウス帝も、その弟であるクィンティッルス帝も、この4人のローマ皇帝は、ゼノビアがローマの協力者という立場であるなら、共治者として東方皇帝を名乗る事に同意する意向を持っていた。しかし、彼らは揃って帝位期間が短く、共同統治協議には至らず、ゼノビアが合法的に皇帝即位することは実現しなかった。

その後もローマには、次々と代わりの指導者が現れる。我こそが皇帝に相応しいと考える人は、一時代に百人は下らない。ローマの元老院は、そういう人ばかりが知力を競う政治の場であり、政治家以外の軍人の中にも自らが為政者となることを目論む人達が次々に台頭した。だからこそ、ガッリエヌス帝即位を容認せずに、「我こそは」と名乗りを上げた皇帝僭称者が20人にも及ぶ事態さえ招いたのだ。

然りながら、提案・検討の場(元老院)を持つローマは、帝政(君主政)とは言え、話し合いには応じる寛容な国家だった。対してパルミラは絶対君主政に近く、政治議論の場が見えて来ない(ローマに属州支配を受けていた期間が長いので、市民議会が無かったわけでもないでしょうけれど)。
ゼノビアの亡き夫であるオダエナトゥスも、オダエナトゥスの父も、ローマから指名された長官であったからこそ統治を許された。しかし、ゼノビアはそうではない。統治権を持っていなかった。ローマの正式承認を受けないまま、半ば強引に息子を国王即位させて自らが共同統治者となり実質上パルミラの君主となった。その時点でパルミラの治政は、ローマ帝国のそれとは異なる。

尤も、ゼノビアが手順を踏み、ローマに対して東方の統治権継承を認めさせようとしても、保守的なローマ元老院が、”素直に”女性統治者を認めたかどうかは疑わしい。方法論として、息子が君主で母が摂政という事なら認めたかもしれないが。しかし、ゼノビアが望んだのは摂政政治ではなく、自らの直接統治。正式な君主としてパルミラ及び東方帝国に君臨し、何れは、ローマに取って代わる大帝国を築き上げるという野望を持っていたと考えられる。単純に言ってしまえば、所詮は独裁国家。

但し、ゼノビアが長期統治を成して、しっかりした形でその後の皇位継承が行われていたならば、本当にパルミラは第二のローマか、それ以上の国家を成していた可能性もある。もしもそうなら、今のようにユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒による過激な対立は無かった可能性があり、それはちょっと惜しい。(※パルミラも当時のサーサーン朝ペルシアもイスラム教国家では無いので、イスラム教が台頭したかどうかも怪しい。尤も、そこまで言い切れる人など誰もいないでしょう。)

三人の息子?

E・ギボンは、『ローマ帝国衰亡史』の中で、東方女王を名乗ったゼノビアは、ローマ皇帝のもつ民衆的性格と、アジア的宮廷特有の威容盛儀とを併せ具え、あたかもかのキュロス王以来、ペルシア王たちが受けていたそのままの尊崇を、その臣下から要求していたのだ。そのくせ三人の息子にはラテン的教育を施し、しばしば帝位の象徴たる紫衣しえつけた姿で、彼等を軍の前に登場させた。と書いている。ゼノビア自身が生んだ息子はだ一人の筈で、他に養子がいたのでしょうか?此処は少し分からない部分です。

ゼノビア敗北

もう一人の女傑

ローマ皇帝位に就いたアウレリアヌスが、ローマ軍団の多くを東方討伐親征軍に投入出来た理由の一つに、ガリア帝国の内部崩壊が挙げられる。
(1)で触れましたが、ボストゥムスがガリア帝国を建国したのが260年。そのまま皇帝を僭称したボストゥムスが268年まで統治していたものの、兵士の叛乱相次ぐようになり遂に殺害される。その後を継いだマルクス・ピアウォニウス・ウィクトリヌスはけっして愚鈍な者ではなかったが、大富豪出身者で何でも自由になると勘違いした。そして、配下の将軍(アッティティアヌス)の妻に手を出し、怒ったアッティティアヌスに殺された(271年)。すると、 ウィクトリヌスの生母ウィクトリアは、有り余る財力を背景にして有力将軍たちを賄賂で手懐け、実際上のガリア帝国の影の支配者となり(事実、女正帝アウグスタを自ら称した)、最も言いなりに出来そうなガイウス・ピウス・エスウィウス・テトリクスを息子の後継に指名してテトリクス1世を称させた。

ガリア帝国のウィクトリアとパルミラ王国のゼノビア。奇しくも、二人の女性がローマ本国にとって同時に敵と見えた事で、アウレリアヌス帝が女性蔑視とも受け取れる問題発言を繰り広げても、ローマ市民の多くはアウレリアヌス帝に賛同した。この頃の女性達は、さぞや肩身の狭い思いを強いられたかもしれない。
アウレリアヌス帝は、それまでの同時対応方針を取らずに、ガリア帝国は後回しにして、ローマ主力軍を東方へ差し向けた。たとえローマを空にしても、テトリクスなどはすぐに葬り去れるという考えで、兎に角、それまでの誰も勝てなかったゼノビアとの決戦へ注力する。

アウレリアヌスの遠征

アウレリアヌス自らの親征は、アナトリア半島北西部のビテュニア属州の姿勢を一転させた。それまでのビテュニアは、ゼノビア人気が沸騰して脱ローマへ傾いたが、好い取引が成立したのか、ビテュニアはローマへの臣従を再誓する。ビテュニアを臣従させたローマ親征軍は、現在はトルコの首都である都市国家アンキュラ、現在のカッパドキア領域に含まれるテュアナ(ティアナ)などを陥落させて(けっして楽な戦いではなく、そこまでにローマ軍も相当傷ついた)、この時代では最も重要な都市の一つアンティオキアへ迫る。
ローマ軍の侵攻を止められなかった他都市の状況を知った市民は、かなり早い段階で見切りをつけ都市防衛を放棄して脱出。アンティオキアは蛻の殻状態となった。アンティオキアは略奪し放題という状況だったが、アウレリアヌス帝はそれを一切許さなかった。そしてアンティオキアの全市民に対して恩赦令を発して安全を保障する。市への帰還を呼び掛けられたアンティオキアの政治家や軍人達の殆どは、ゼノビアの”同盟者”。アウレリアヌス以前の皇帝達との戦いに於いて、彼らの多くがローマ軍に対し打撃を与え辛酸を舐めさせた歴戦のツワモノ達である。アウレリアヌスの言葉をすぐには信用せず、今で言うゲリラ戦に突入する構えも見せた。しかしローマ軍は応じず、皇帝は重ねて恩赦を口にする。嘗ての敵にも寛大さを見せ、”大赦”を約束するローマ皇帝。こうなると人というのは現金なもの。身の安全が保障された途端に、アンティオキア市民の多くは反パルミラに転じて市中へ戻り、そして城門を閉じた。

言い方によっては、「平和を願っての行動」だったかもしれないが、アンティオキアの姿勢が180度変わってしまった事に対してゼノビアが嘆き悲しんだだけならば、ゼノビアの名声は一挙に失墜していたに相違ないとギボンは述べている。ゼノビアは、アンティオキアの態度一変を責める事も詰る事もしなかった。城門を閉じさせたまま(つまり、援軍となることを要請せず)アンティオキア軍抜きでローマとの決戦に挑む(272~273年:アンティオキア近郊イマエの会戦)。

アンティオキア決戦

アウレリアヌス率いるローマ軍と対峙したパルミラ軍の総司令官は女王ゼノビア。そして、彼女の傍には立派に成長した”東方皇帝”ウァバッラトゥスが布陣した。ゼノビアの婚姻は258年頃なので、成長したとは言え、この会戦当時のウァバッラトゥスの年齢は14~5歳か。但し、ウァバッラトゥスは早婚で既に子(=オデナトゥス)を生していた。因みに、オデナトゥスは実在の人で、ゼノビアとの血縁関係も認められているが(オデナトゥス以降も家系は結構長く続いている)、ウァバッラトゥスの実子という部分については疑問を呈す識者たちも少なくはない。

さて、パルミラ軍とローマ軍の死闘です。
軍装を纏い自ら陣頭に立つ女王ゼノビアに指揮されたパルミラ軍は、軽弓射歩兵と完全装甲の重騎兵から成っていた。ゼノビアの命令を実施するのはゼノビア麾下の将軍ザブダス(=エジプト攻略戦で多大な功績を挙げた)。殆ど全ての戦闘は、ザブタスの手腕に委ねられたとギボンは書いています。パルミラ軍の猛烈な突進の前に、ムーア人、イリリクム人から成るローマ軍騎兵隊は脆くも崩れ去り、緒戦はパルミラが完勝。ところが、ここでゼノビアは痛恨の指揮ミスを犯す。敗走したローマ軍をこれまでの彼らと同様と甘く見て追撃命令を下した。

ユーラシア・ステップの騎馬民族国家の軍隊ならば軽弓射”歩兵”ではなく、軽弓騎兵で逃げるローマ軍を面白いように背後から狙い射たでしょうけど、パルミラには重騎兵軍はあったが、馬上から弓を射る部隊を有していなかった。必死の追撃を試みたが、ローマ軍の方が速かった。そして、まともに正面からでは勝てないと判断したローマ軍は、プライドも何も捨て何でもありのゲリラ戦に転じる。
重装備で駆けた人馬は疲れ、歩兵も疲れていたパルミラの大軍は、大軍故に、ローマ軍のまさかのゲリラ戦法に混乱した。形勢は逆転し、ギボン曰く(ローマ軍は)行動の敏速を欠いたパルミラ軍騎兵団 を粉砕し去った。弓射部隊も矢種を射尽くし てしまい、あとはもう丸裸の近接戦に持ち込まれ、逆に、軽装の彼らはローマ軍の槍の餌食となってしまった。

アンティオキア近郊イマエの会戦は決した。ゼノビアは初めて敗北を喫し(しかも、大敗北)、気持ちの切り替えが出来ないまま、次の、ローマ側の属州首都エメサでの決戦(エメサの会戦)を迎える事になる。しかし、親ゼノビア派の都市国家達は、ゼノビアの敗戦と動かなかったアンティオキア市の対応に倣い、(パルミラへの)援軍を寄越さなかった。

周辺都市国家の援軍を得られず孤軍状態のパルミラですが、アンティオキア決戦以前に届いた降伏勧告を一笑に付した女王のプライドをかけて戦う以外に道は無かった。

・・・という事で、最後の戦いを書いてしまいたいのですが次回へ。ゼノビアの人生はパルミラと共に終焉を迎えるわけではありません。そして、アウレリアヌス帝とゼノビアの”戦い”は、彼女が連行されたローマへと持ち越されます。

(続く)

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