パルミラの女王ゼノビアと帝政ローマの戦い(1)~パルミラ王国と美麗女王ゼノビア~

西アジア史

ローマ帝国衰亡史に於ける女王紹介文

多少の疑問はあるにしても、かの古代女王セミラミス(=紀元前800年頃のアッシリア帝国の伝説上の女王)の功業を別にすれば、おそらく、アジアの風土風習が女のさがとして与える隷従怠惰の悪癖を見事に打破してのけた、ほとんど唯一の女傑だったのではなかろうか。彼女自身、祖先はマケドニア系エジプト王家と称していたし、事実その美貌はかのクレオパトラ(7世)にもおさおさ劣らず、貞節と勇気でははるかに上だった。最大の女傑というばかりでなく、最高の美女としてもその名は高い。と、 まるで恋焦がれた女性を褒め千切るかの如く、自身の名著『ローマ帝国衰亡史』の中でエドワード・ギボンはそのように表現している。更に続く・・・

肌は浅黒く(つまり、 雄褐色の肌)、歯並は真珠のように白かったという。漆黒の大きな瞳は、ただならぬ光を帯びて輝きながら、しかも、なんともいえぬ優しい魅力をたたえていた。声は力強く、しかも実に音楽的だった(つまり、気品と力強さと心へ響かせる声)。もともと男勝りの知力の上に、それがまた学問愛によって磨かれ、いっそうの逞しさを加えていた。・・・

E・ギボンによる称賛の言葉はまだまだ続くけれど、取り敢えず、以上の言葉は、誰を称しているのかと言えば、三世紀、ローマ帝国に対して敢然と反旗を翻したパルミラ王国の女王ユリア・アウレリア・ゼノビア

もちろんラテン語もできたが、劣らずギリシア語、シリア語、エジプト語なども完全に通じていた(彼女自身の母国語はアラビア語)。という語学堪能、軍政理解力と学識を持ち、且つ、女性の中では最も愛らしく、最も英傑にして勇敢。彼女は、オリエント世界の歴史上、誰よりも気高く誰よりも美しい女王である。(ゼノビアを称する言葉は、『ローマ帝国衰亡史』の第二巻より引用したものです)。

E・ギボンが『ローマ帝国衰亡史』という壮大な史書を書き上げ切れた原動力は、美麗女王・ゼノビアに恋焦がれた”想い”ではなかったのか?なんて事も言いたくなる、まるで、遠く会えなかった想い人へのラブ・レター。目を閉じ、彼女の肢体をもなぞっているような、いやぁ、筆が飛び跳ねるように軽やかに進んだのだろうね。サッフォーに恋焦がれたプラトンみたいです。ごめん、不肖私は下衆です。

パルミラの歴史

左端:シュメール当時の都市国家群。マリ(Mari)から西へ平行に向かうとパルミラ(Tardor)
右端:女王ゼノビア全身像(アメリカの彫刻家ハリエット・ホスマー作)

パルミラは、現在のシリア中央部ホムス県タドモルに位置していた。嘗てのローマ帝国に支配された都市遺跡として、ユネスコの世界遺産登録を受けている。砂漠の国・シリアを代表する都市遺跡ですが、仕方のないこと乍ら、嘗ての輝きは失われている。でも、”嘗ての輝き”の期間はとても長い。

パルミラが、歴史上に初めて登場するのは紀元前7万5千年頃。旧石器時代の石器が見つかり、此処に人々の暮らしがあったことが確認された。都市名として登場した最初は紀元前2千年代。当時のシュメール人国家の代表的な一つマリの遺跡の中から発掘された粘土板に、パルミラ(シュメール語でTadmor、Tadmur等)と思しき都市名が刻まれている。(↑参照古代シュメール当時の地図)

アラム語では現在のアラビア語同様にタドモルと呼ばれていたパルミラは、ナツメヤシの産地として知られたオアシス都市。マケドニアに侵攻されセレコウス朝の支配を受けた古代シリアですが、パルミラは、当時のシリアでは自治を認められていた数少ない独立国家の一つだった。その後シリアは、マケドニアを倒したローマの支配を受けたが、それでもパルミラは長く独立を維持していたという。しかし、帝政へ移行したローマが、第二代皇帝ティベリウスの時代(14年~37年)に入ると、ローマからの圧力を持ち堪えられなくなったパルミラは、属州シリアの一部に組み込まれた。それでも、パルミラの都市的魅力に魅了されたローマの歴代提督や将軍達はパルミラを重んじ、同じようにローマに駆逐されたナバテア王国の通商権を与えられるなど厚遇し、パルミラの繁栄は続く。そして遂に、第14代皇帝ハドリアヌスの時代の紀元129年に、パルミラは自由都市としての独立を容認された(パルミラ・ハドリアナに改名する事が条件)。

3世紀に入りサーサーン朝(ペルシア)が拡大。その勢いにシリア全土が圧迫される。パルミラは、ローマ帝国の重要(軍事)拠点としてサーサーン朝と対峙するようになった。しかし、アケメネス朝時代の栄光再来を掲げるサーサーン朝はローマ軍を翻弄。259年のエデッサの戦いで、ローマ皇帝プブリウス・リキニウス・ウァレリアヌスは、サーサーン朝の皇帝シャープ―ル1世との直接対決に臨んだものの大敗北を喫す。捕らえられたローマ皇帝の最期には諸説あるが、奴隷化されたか処刑された。

自国皇帝が捕らえられ存在を”消される”という前代未聞の失態を招いた帝政ローマは、次期皇帝位を巡り混迷するが、皇帝ウァレリアヌスの嫡男で、その時点では共同皇帝(西方皇帝)だったプブリウス・リキニウス・エグナティウス・ガッリエヌスが単独皇帝として強行即位。しかし、敵に捕まるという大失態を犯した皇帝の息子が即位することに対しては、当然のように誹謗中傷が轟音を立て渦を巻き、新皇帝の即位を認めない将軍達が20人も皇帝僭称するという異常事態を招く。

混乱は更にエスカレートして、叩き上げのガリア系軍人マルクス・カッシアニウス・ラティニウス・ボストゥムスなどは、ガリア帝国の建国を宣言。この軍事クーデターにより、ガリア・ヒスパニア・ゲルマニア・ブリタンニアが陥落するなどローマは大きく割れた。
何としてでもこれを鎮圧するべくローマを発ったガッリエヌスですが、その隙を突いて、今度は東方属州で、当時の実力者フルウィウス・マクリアヌス(大マクリアヌス)と長男のタイタス・フルヴィウス・イウニウス・マクリアヌス(小マクリアヌス)、親衛隊長官バッリスタが合同蜂起する。この蜂起軍がローマ占領へ向かう動きを見せた。更に、小マクリアヌスの次弟ティトゥス・フルウィウス・ユニウス・クィエトゥスも軍を挙げた(この4人は、何れも皇帝僭称者)。
二進も三進も行かないガッリエヌスは、評判は悪いものの軍人としては優れていたマニウス・アシリウス・アウレオルスにローマ防衛を委ねる。アウレオルスは、バルカン半島へ進軍して来たマクリアヌス父子(大マクリアヌスと小マクリアヌス)と激突。確かに軍人としては優れていたアウレオルスは、マクリアヌス父子を戦死させたが、アウレオルスもまた、皇帝僭称者の一人となる。

女王の家族

どうしようもなく弱り果てていた名ばかりの”新皇帝”ガッリエヌスを救ったのが、パルミラの有力者セプティミウス・オダエナトゥス。元々パルミラの長官を父に持つオダエナトゥスは親ローマ派で、且つ、 前皇帝ウァレリアヌスを敬っていた。そしてオダエナトゥスは、私兵のみでサーサーン朝に二度も攻め入るなどして、 ウァレリアヌス帝の復讐戦を行った事でも勇名を馳せていた。私兵と言っても、サーサーン朝相手に一歩も引かなかったオダエナトゥス軍は強力で、攻撃を受けたクィエトゥス軍は壊滅。敗北したクィエトゥスは捕らえられ処刑されたが、その処刑で直接手を下したのは、最終的にはマクリアヌス家を裏切ったバッリスタと云われている。しかし、自らも皇帝僭称していたバッリスタは、オダエナトゥスに攻撃され敗死する(261年)。オダエナトゥスの名声は大きく轟くことになった。
この出来事の約3年前、258年頃に、オダエナトゥスは、アラビアのベニサマヤド族の族長ザッバイの娘で、絶世の美女と謳われていたセブティミア・ザッバイ(=通称ゼノビア)と再婚する。

ゼノビアの父ザッバイは、アラビアの有力部族の族長ながら、祖父は2世紀後半にローマ市民権を得ており、恐らく、ザッバイの一族は古代からシリアの祭祀を司った氏族出身者だと推察出来る。ザッバイの近縁者には、ローマ皇帝セプティミウス・セウェルス(セウェルス朝の始祖)の后となったユリア・ドムナ(皇帝カラカラの生母)がいる。
ゼノビアは、容姿端麗であるばかりでなく古代エジプト文化に精通し、自身は、クレオパトラ(7世)の末裔と称して、クレオパトラを篤く敬っていた。当時の高名な哲学者であるカッシウス・ロンギヌスなどは、後に、自らの意思でゼノビアの側近となり、ゼノビアが著したホメロスとプラトンの比較書や歴史書の手解きを行ったと云われる。

ゼノビアは、美貌や学問だけでなく優れた軍事指導者だった。夫となったオダエナトゥスの陣には、常に、軍装を纏った美女武将ゼノビアの姿があり、語学堪能で外国文化に精通している彼女は大変優秀な軍師でもあった。ゼノビアの絵には、軍装を纏う美将として描かれるものが少なくない。

ゼノビアは、後にパルミラ王国の国王となるルキウス・ユリウス・アウレリウス・セプティミウス・ウァバッラトゥス・アテノドルスを出産するが、その正式な年月は分かっていない。ゼノビアの実子は ウァバッラトゥスのみとされる。

オダエナトゥスは、”新皇帝”ガッリエヌスにとって唯一信じられる存在であり、東方属州の防衛を一任された。パルミラは、まだ完全な独立国家ではなかったものの、オダエナトゥスは実質上の国王的な権限を持つ立場としてパルミラに君臨し続けた。
帝政ローマにとって最大脅威となったガリア帝国との戦いを側面支援する為に、267年、オダエナトゥスはゴート族討伐の為の軍を挙げる。ところが、その遠征前の宴で、オダエナトゥスと長男セプティミウス・ヘロディアヌス(=若くして亡くなった前妻との間に生まれた、実質上の嫡男)が暗殺されるという大事件が起きた。後世では、王位簒奪を謀ったゼノビアが画策した事だという説も出たが、真相は闇の中である。取り敢えず、犯行の実行者が、オダエナトゥスの甥であるマエオニウスであることは間違いない。日頃から態度が粗暴なマエオニウスは、オダエナトゥスの命じにより収監・監禁される事を繰り返していたが、その恨みによる報復だと見られている(E・ギボンの説)。

父と一緒に暗殺されたヘロディアヌスには側室もあったと云われるので、側室もあったのなら正室もいたでしょうし、子を生していたかもしれませんが、全て闇の中です。私などには分かりませんし、ゼノビア愛のギボンがその謎解きをするなども有り得なかったのでしょう。

女王ゼノビアの時代へ

夫の死後、ゼノビアはウァバッラトゥスが後継者であることを宣言して、自身が共同統治者としてパルミラに君臨する。既に、市民の多くから高い支持を受けていたゼノビアは、難なく(暗殺の)事態を収拾して、”新皇帝”ガッリエヌスも、新たにゼノビアが率いることになったパルミラとの共同歩調を望んだ。ところがその翌年(268年)に、ガッリエヌスが暗殺される。

ガッリエヌス崩御後間を置かずして、側近(顧問)の哲学者カッシウス・ロンギヌスのアドバイスとも言われるが、ゼノビアはパルミラの完全独立国家化を目指して、ローマ属州のアラビア・ペトラエア(旧ナバテア王国=現在のヨルダンとシリア南部)の州都ボスラ(現在はユネスコ世界遺産都市)へ進軍しこれを征服した。親ローマと信じ切っていたパルミラの女王に、属州アラビアを占領されたローマは大きな衝撃を受けた。然りながら、元々旧ナバテアの通商権はパルミラに与えられていたものであり、ゼノビアの行動を軍事行動と見るべきか、単なる視察団的な行動と見るべきかを、当時のローマはまだ計りかねていた。

(続く)

コメント