平和の価値~祈願と誓願~

時を紡ぐ~Japan~

願ってばかりの日本

日本国憲法は、”平和憲法”とか”戦争放棄憲法“と言われる。
平和を希求する国家・国民でありたいと希むことは当然のこと。どの地域のどの国家でも、どんなに好戦的な民や為政者であっても、最大の望みは争いのない平和。国家同士、民族同士が争う理由の多くは「争わずに済む状態」を手に入れる為。嘗て我が国が構築しようとしていた大東亜共栄圏も、東アジア一帯が争わずに済む状態を目指したもの。但し、大日本帝国が唯一の支配的立場であることを条件に。だから、戦争を回避出来るわけがなかった。

戦争で多大な犠牲を払う羽目になった日本は、第二次世界大戦後、「平和」という言葉に対して異常な程に飢え、遂には「平和ボケ」などと揶揄されるような現在の状態になった。平和を希求するなら、それを行動で示すことが何よりも大切なことですが、『平和憲法』と米国の庇護の下、常に、願ってばかりである。

“敗戦国”の負い目

第二次世界大戦で最後まで戦い続けた。逆転勝利を信じて諦めなかった。その結果、最後の最後まで世界平和を乱した国家として「大日本帝国」の”悪名”は歴史に刻み込まれた。だけど、それがどうした?戦争して一度も負けたことが無い。という国家は地球上の歴史で本当にごく少数です。多くの国家は、複数回の敗北、或いは大敗北を経験している。何度も占領され、国自体が滅ぼされ、そこに暮らす民はその度に政治体制や信仰宗教までも何度も変えられた。世界中が、そのような歴史で埋め尽くされる。日本だけが特別な敗者ではない。でも、何故か日本だけが特別な敗者であるかのように位置付けられている。

日本国家と当時の政治指導者達は、戦勝国(連合国側)の判事ばかりが居並ぶ”不当な”東京裁判に於いて、極悪非道の者であったかのような一方的な印象操作を受けた。まともな判断を下したのは、インドのパール判事のみと言える。
国の形の殆どを強制的に変えられて、皇室も、そして日本語さえも失いかねない状態の中、大日本帝国憲法に代わる日本国憲法を発布した。昭和天皇を国家国民統合の象徴とすることで、伝統文化全てを否定されることは何とか回避された。が、自国の”国防”を他国(米国)に委ねるという全く以て情けない国家・国民と成り下がった。尤も、米国の庇護が無ければ、共産主義化(社会主義化)されたり、国家分断されたりの可能性があっただけに、全てを米国に委ねたことを「間違いだ」と否定するつもりは毛頭ありません。

昭和の大敗北以降の日本人は、マスコミの扇動もあり、世界の平和を乱した罪人というイメージを懸命に払しょくするべく、事ある毎に、世界平和を祈願し続けている。繰り返すが、平和を希求しての祈願行為自体は何も間違えていない。極めて正しい行動だ。見ず知らずの赤の他人の平和や幸福を祈願出来るというのは実に素晴らしい。しかし・・・
見ず知らずの赤の他人のことは兎も角、自分の幸せや自国の幸せは、願うものではなく誓うもの。祈願ではなく誓願。願うより誓うのが優先する。

●願いは、自分以外と希望に対して。

●誓いは、自分自身と信念に対して。

●自分と自国の平和を欲するなら、願うのではなく、その実現を誓って行動するべきだ。

何もしないで願ってばかりでは、実現出来る事など何一つない。平和実現~維持に必要な行動を何一つ出来ない状態では平和を誓う事など到底無理である。

世界の平和を”誓う”?

ところで日本では、「世界平和への誓い」というような言葉を口にする人を見掛けることが出来る。が、我が国の力では「世界平和」など成せないことは日本国民の多くが分かっている。だから「願う」だけ?だったら誓願=「平和への誓い」ではないな。本当に平和を誓いたいならば、先ずは我が国自身が、我が国だけの力を以て、揺るぎ無い平和を実現・維持し続けて見せなければならない。自国の平和さえ自国だけでは築けないのに、世界の平和を誓う?烏滸がましいにも程がある。
世界の平和は「祈願する」だけで十分。我が国には、世界平和を「誓願する」ことは出来ない。国連主導の平和維持活動への参加さえ激しく反対し文句を言う者達が大勢存在するのが日本である。そのような国家の国民が、「世界の平和を誓う」・・・恥ずかしい。

憲法を守ったから平和=× / 日米安保を維持したから平和=〇

日本国民の多くが平和を希求しているけれど、他力本願で願ってばかり。自分達では平和の構築は出来ない。アメリカ合衆国(在日米軍)ありき、日米安保条約ありき。しかし、在日米軍が本当に日本を守ってくれるのか、実際にその時になってみなければ分からない。「米軍には、日本を守る義務がある」とか言う人が評論家や政治家には少なくないけれど、任せっきりの姿勢であるならば、守ってはくれないのではないだろうか。自らが率先して生き残ろうとする自己防衛行動を取らない限り、米軍の支援は受けられない筈だ。普通に考えたらそうだよね。自らが生き残りたいという行動を示さない限り、守りようがないでしょう。しかしながら、自己防衛行動=軍事行動であるならば許されない事のように言う人が日本国中に大勢いる。自分の身を自分で守ろうとしない人達にとって、自分の身を守ろうと防衛行動することは悪なのか?・・・アホやろか?自分の身を自分で守る気がない者に対して、他人が守ってくれる?意味不明。と言うよりは、日本人でありながら、「日本人(日本国)など滅んでしまえ!」と思っているのでしょう。そのような反国家主義者が数多存在する日本社会の現実を変えたくはないですか?

「日本国憲法・第9条」を聖書のように唱え、これを守って来たからこそ戦後日本の平和は保たれたと言い張り譲らない人達は、本当に、この日本の伝統社会の中で生き続けたいのかな?日本じゃなくてもいいんじゃないのかな?日本を嫌いなのでしょう?

憲法を守ったから攻撃されなかったのではなく、日米安保を守って来て経済活動に専念出来て、現在の金融・経済を築けたからこそ攻撃されていないのです。落ちぶれ始めているとは言うものの、まだ、曲がりなりにもGDP世界3位。金融資産も莫大な量を保有している日本がどこかの国に攻撃されてマヒした場合、世界は大恐慌どころの騒ぎでは済まない状況に陥る。その程度の事は、いくら日本を忌み嫌う隣国の国家指導者でも分かっているから日本は攻撃を受けていないのです。
今後、日本の経済力や金融力が、世界に対して大した影響を及ぼさなくなる時が来るとしたら、アメリカ合衆国は日本防衛を放棄する。その時、何の備えもなければ狂った隣国から確実に攻撃される。少なくともその程度のことは想定して、やるべき事(独自防衛手段の構築)はやっておくべきです。

真の国家強靭策

今まで何もして来なくても大丈夫だった。だから今後も何もやらない。などと言う理屈は通用しない。本当に軍事的な防備に頼らず国家・国民に対し恒久平和を保障すると言うのであれば、徹底的に教育水準を上げ、全ての子ども達に対して無償の修学援助を行い、常に、世界最高水準の技術力と文化力、引いては金融・経済力を持つ国家で在り続けなければならない。

但し、全ての子ども達が安全に安心に学習出来る社会環境を構築して維持するってのは生半可なことでは達せられない。当然、全ての法にメスを入れなければならない。結果的に、現行憲法の大部分を書き換え、関連諸法も次々と改めるしかない。法改正して社会システムに乗せて運用するには、莫大な費用が必要だ。だから、(外貨を)稼いで稼いで稼ぎまくらなければならないのですよ。戦力では遠く及ばずとも、技術力、文化力、人間力では如何なる強国に対しても屈することはダメです。勝たずとも、同等。引け目、負い目を感じるような教育をやったらダメです。真の平等者を目指さないと。

これだけは言える。平和には無限の価値がある。無限の価値だから値段のつけようがない。値段のつかない事と「無料(ただ)」は違う。ケチ臭い国家・国民には絶対に平和構築は出来ません。

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