ラグビーの歴史アレコレ(8)~日本ラグビーの歴史~

フットボール系エッセイ

日本ラグビー黎明期を支えた伝説的3人

銀之助とエドワード.1

田中銀之助は、1873年(明治6年)1月20日に横浜で生まれた。そして、銀之助の生涯の友となるエドワード・ブラムウェル・クラークは、翌1874年に同じく横浜で生まれた。

田中銀之助の母方の祖父は、死後の石碑に、初代首相・伊藤博文より『天下之糸平』の揮毫を入れさせるほどの稀代の実業家(生糸商)・田中平八。田中銀行(=第百十二国立銀行)の設立者であり、東京米商会所(現・東京穀物商品取引所)初代頭取であり、渋沢栄一の従兄・渋沢喜八らと共に設立した東京株式取引所の大株主。東京株式取引所に東京米商会所を上場させ仕手戦を展開しこの大博打に勝ってみせた伝説の相場師。・・・資産家に生まれながら剣士を目指し、天狗党の乱に加わり投獄。武士を諦め相場師に。何度も失敗し何度も無一文になり甦った不死身の男。う~ん・・・田中平八さんのことを書いた方が面白そうだけど、いやいやラグビー記事です。

銀之助の父・北村菊次郎は田中平八に気に入られて娘婿となり、糸平不動産と田中鉱山を設立する。いわゆる資産家の子として生まれた銀之助は、現在の開成中学(当時は共立学校)から学習院中等科へ転学し、更に、英国留学の為に地元横浜のビクトリア・パブリック・スクールへ入学。そこでエドワード・B・クラークと知り合った。クラークはパン職人の子として横浜に生まれ育ち、同じように、英国留学準備の為にビクトリア・パブリック・スクールに通っていた。二人は、パブリックスクール以前からの幼馴染だったという説もある。同じ横浜なのでね。

銀之助は、1889年、16歳時に予定通り英国留学してリーズ校に学び1893年にケンブリッジ大学トリニティ・ホール・カレッジ(※ケンブリッジを構成する大学の中でも相当高い学力を必要とする)に入学します。一方、E・B・クラークは横浜でパブリックスクールを卒業後、同じケンブリッジ大学のコーパス・クリスティ・カレッジへ入学します。(※オックスフォード大学のコーパス・クリスティ・カレッジとは姉妹校)。

顔馴染みの二人は、校舎は違うけれど同じケンブリッジの学生となり、どっちが誘ったのかは定かではないけれど、ラグビーユニオン部に所属する。二人とも、選手としての名声を得たかと言えば決してそうではないけれど、ラグビーユニオンの中枢たるケンブリッジでラグビーを経験したことは事実。

銀之助は、ケンブリッジで法学士の学位を得て1896年に帰国。帰国後は家業を継ぐために実業界に就職(その後、田中銀行代表取締役/田中鉱業取締役/東洋鉱山取締役/日本製鋼取締役等々を歴任)。日本のビジネス界黎明期に大いに活躍して名を馳せた。

一方、E・B・エドワードもケンブリッジ卒業後に日本へ帰国。パブリックスクールで師事したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)に憧れていたエドワードは、ケンブリッジで文学を専攻。日本帰国後は、慶應義塾大学の英語講師に迎えられた。尚且つ、慶應ラグビー部の創設も任される。この頃の慶應は、学頭・福沢諭吉が財政難を何とか乗り切り、体調が優れない中でも学制改革にまい進していた。恐らく、ラグビー部創設もその一環だったのでしょうし、クラークの採用もそうだったでしょう。

因みに、日本初(アジア初)のラグビークラブは1866年に創られた「横浜フットボールクラブ」。クラブ員は、横浜居留の外国人と英国駐屯地兵。日本人はいなかったらしい。が、横浜は日本ラグビー発祥の地として歴史に刻まれ、ワールドカップ日本大会で、日本をベスト8に導く記念すべき地になった。

まだまだ、明治維新を経験した人たちが多かった時代ですからね、
・ノーサイドの精神
・「All for One」「One for All」
など、ラグビーは当時の日本が最も必要とするスポーツだと、慶應はそのように判断したのでしょう。

高木喜寛

あと一人の功労者が1874年11月に東京で生まれた高木喜寛。日本初の医学博士(海軍軍医)高木兼寛の長男。1891年に医学を志し英国留学。キングス・カレッジ・ロンドンに入学して3年間を過ごした後にセント・トーマス医科大学(現キングス・カレッジ・ロンドン医学部)へ進学。そこでラグビーに出会います。産婦人科と内科・外科の医術を習得して1899年に卒業。現在の東京慈恵医科大学を研究場として日本の医学界に多大な貢献をしていくのですが、同時に、ラグビーを広めることに尽力することになります。

銀之助とエドワード.2

エドワードは、銀之助に共に慶應ラグビー部で指導してくれないかと懇願し、本業の多忙さを理由に渋った銀之助を口説き落とし、エドワードと銀之助の支援を受ける形で慶應ラグビー部を創り上げていく(1899年~)。これが日本ラグビーの起源と云われています。・・・慶應!(早稲田も明治もだけど)もっと頑張って帝京の天下をぶち壊せよ。

尤も、1899年にすぐに慶應にラグビー部が創部されたかと言えばそこは違って、先ずは大学内に同好会が二つ(ゼ・バーベリアンと敷島クラブ)作られ、原っぱラグビーが始まり、1903年に慶應義塾體育會蹴球部が大学の体育会に正式加盟した時が慶應ラグビー部の起源らしい。何かを始めるにしても色々手順があるんですよね。

二つの同好会の合同チーム=慶應義塾vs横浜フットボールクラブを中心とするYC&Aの試合が、日本人が初めて外国人とラグビーの試合を行った記念すべき日(1901年(明治34年)12月7日ー午後2時30分キックオフ)。5対41で負けたけど、外国人相手の日本人初トライ(塩田賢次郎)も生まれた(当時のルールでは、トライ3点、コンバージョン2点)。

慶應ラグビー部と共に日本ラグビーの発展に尽力していたエドワードですが、1907年に関節リウマチの悪化により右膝から下を切断。学生と一緒にグランドにいることが難しくなりその後は学業専念。物凄い量の書物を読破してその知識の豊富さは『クラーク百科(事典)』と尊称される程。きっとフットボール理論も物凄い量を持ち合わされていたのでしょうね。為になる蔵書だけで5千冊を優に超え、その全ては晩年に教鞭をとった京都大学に寄贈され『クラーク文庫』と言われた。(今も所蔵されているのかな?)1934年に死去。享年60歳。・・・「(日本にラグビーを)ありがとうございます」ですね。

左から、E・B・クラーク、、、田中銀之助、、、高木喜寛

日本ラグビー協会誕生

因みに、慶應に次ぐ二番目のラグビー部が創部された学校は1910年(明治43年)の第三高等学校(現・京都大学)。クラークが、リウマチで慶應を去った後に迎え入れられた先です。そして、初の日本人同士の対外試合が、 慶應義塾體育會蹴球部vs第三高等学校嶽水会蹴球部。1911年(明治44年)4月6日です。

この年に、同志社専門学校(現・同志社大学)が三番目のラグビー部を創部。早稲田は意外と遅く1918年(大正7年)、東大が1921年(大正10年)、明治は1923年(大正12年)創部です。

銀之助は家業に専念しつつ、余暇をラグビーに費やした。大正13年(1924年)に、関東ラグビー蹴球協会を発足させる。慶應義塾、東京帝国大学、早稲田大学、明治大学などのOBが協力して『対抗戦』の基礎が出来上がっていく。

同年に、鉄鋼や鉱山を中心に日本経済を支える地として活況を帯びていた九州・福岡に九州ラグビー倶楽部(現・九州ラグビーフットボール協会)設立が成って、これが日本の社会人ラグビーの基盤となる。そうなんですよ、昔は九州の社会人ラグビーは国内では圧倒的に強かったんですよ。(でも、今ほど学生に圧勝出来る力は無かった筈だけど・笑)これも、銀之助の家業(田中鉱業他)と九州経済界の結びつきがあったことに因るものです。

翌年には、関西に西部ラグビー蹴球協会が発足して、これで日本ラグビーを長い間支えた三地区対抗(九州・関東・関西)の基盤が出来上がる。

1926年(大正15年)11月30日に、日本ラグビー蹴球協会が発足。初代会長就任を強く請われた銀之助ですが、本業を疎かに出来ないと強く固辞。会長職就任要請は諦めざるを得なかった協会側は、(初代)名誉会長職を用意して、これには銀之助も断れなかった。

田中銀之助と高木喜寛

エドワードと銀之助によって日本のラグビーは動き始めた。そして、高木喜寛こそが日本にラグビーを根付かせた。その力量を見込んだ田中銀之助が、当時自身が務めていた関東ラグビー協会会長職を辞任して、自分よりも「絶対に適任者である!」と強く推した相手が高木喜寛。高木が第二代関東ラグビー協会会長に就任した(1926年/大正15年11月30日)その2年後、1928年に日本ラグビー協会が設立され(1926年11月30日は発足日)、会長職を固辞した銀之助の代わりに、初代会長として高木喜寛が就任。銀之助は初代名誉会長職を請けた。

銀之助が会長に就くことを固辞した理由は、「自分は直情的で駆け引きが苦手。これからの日本ラグビーは外国と渡り合う事にもなろう。自分は交渉で欺かれることが大嫌いできっと良くない交渉結果になる。しかし高木君ならば、きっと素晴らしいリーダーになれる。」というような事だったみたいですが、それは関東協会の会長職を退いた時と同じ理由。日本のラグビーが、本場イングランドに追い付くことを本当に願っての事だったのでしょうけど、「芸者遊びが出来なくなる」ことを嫌がっての事とも噂される(笑)何れにせよ、真っ正直で鳴らした銀之助が、高木喜寛を押し立てた事こそが、田中銀之助の面目躍如だったと云われる。

「日本ラグビーの二人の父」は、日英の戦争を知らずに相次いで逝った・・・

ケンブリッジで、共にラグビーをプレイした銀之助とエドワード。日本帰国後は別々の分野に進むが、共に、慶應大学の学生達にラグビーユニオンのルールとプレイを指導した。尚且つ、エドワード自身は選手としても活躍した。けれどもリウマチ発症でプレーヤーとしては断念する。田中銀之助とエドワード・B・クラークの二人は「日本ラグビーの父」である。特に、横浜で生まれ育ったクラークは本当に日本が大好きで、”日本人”であることを自認していたと云う。今の時代なら、疑う事なく「日本代表」の一員だった(選手としてと言うより、日本を代表するラグビー人として)。

日本ラグビー協会設立を心の底から喜んだエドワードは、6年後、昭和9年に他界。日本とイギリスの戦争を知らずに済んだ生涯だったことが救いです。「日本ラグビーの父」の一人、エドワード・B・クラーク氏は、神戸の外国人墓地に眠っている。そして・・・

“盟友”エドワードがこの世を去った翌1935年(昭和10年)8月27日。もう一人の「日本ラグビーの父」田中銀之助氏も他界。こちらも、日英の戦争を知らずに済んだ。

ラグビー戦士を二度と戦場に行かすな!(怒)

日本を代表する小説家・有島武郎の妹を妻に娶った高木喜寛は、ラグビーの母国イギリスと戦争した日本を生き抜き1953年(昭和28年)11月1日に生涯を閉じた。

日本ラグビー協会が創設され、高木会長(初代)、田中名誉会長という布陣で動き出した時、彼らは、日本とイギリスが戦争する事なんて絶対に望んでいなかった筈なのにね。それは勿論、エドワード・B・クラーク始め、日本のラグビー界発展に尽力してくれた英国人達もそうだった筈。もう二度とそういう(戦争の)時代が来ないように切に願うもの也。

戦前の日本は、世界有数のラグビー大国だった

ところで、多くの人はあまり知らない話みたいですが、ラグビーが本格的に大日本帝国当時の日本に伝わり、銀之助氏やエドワード氏、そして高木氏などの尽力もあり、20世紀前半の日本ラグビー界は黄金期にあった。勿論、世界的に見ての強さがどうのこうのいう話では無いけど、国内に於けるラグビー部の数が急増。登録選手の数だけなら、スコットランド、ウェールズ、アイルランド、3ヶ国の登録選手数の合計よりも上回っていた。恐らく、当時の明治、慶應、早稲田、同志社のレベルも低いものでなく、1932年1月31日に花園ラグビー場で行われたカナダ代表と日本代表のテストマッチでも日本がカナダを一蹴している(38対5)。(※でも、カナダ代表と日本の個別チームの試合は、カナダ代表の5戦5勝だけどね)。1934年にオーストラリアの大学選抜チームが来日したが、慶應と早稲田に連敗した。カナダ代表戦もオーストラリア大学選抜戦も、2万人を超える観衆を集めていて、そのまま戦争も何もなく成長していれば、日本ラグビーは、もっと早く世界的な強豪国になっていたかもしれない。兎に角戦争は、多くの可能性をぶっ潰した(戦死したラガーマンに献杯です)。

秩父宮雍仁親王と香山蕃

戦後、日本ラグビーは、何と言っても「スポーツの宮様」と称され、多くの競技団体の名誉総裁に就かれた秩父宮雍仁親王ちちぶのみややすひとに支えられた。ラグビーだけに肩入れ為されたわけでもないけれど、兎に角ラグビーが大好きだった雍仁親王殿下は、日本ラグビー協会がまだ非公式団体だった発足間もない頃(1926年~1928年)に会長職に就かれていた。その後、高木喜寛氏が正式に会長となるわけですが、非公認の初代会長ということになる。銀之助が会長職を固辞したのも、「(殿下の後では)畏れ多い」という理由でもあったかも。

秩父宮ラグビー場、故・秩父宮雍仁親王殿下、故・香山蕃氏

戦後、日本ラグビーの復興に尽力して、東京ラグビー場建設を推進した香山蕃かやましげる(京大ララグビー部を全国制覇に導いた人)は、特に雍仁親王と懇意であったと云われ、 1953年初頭に雍仁親王が薨去なされると、東京ラグビー場を「秩父宮ラグビー場」に改名するよう強く要請してそれは実現する。そして2年後の1955年。香山は第三代会長に就任する。実は、日本代表が花園でカナダ代表を破って世界デビューを果たした時の監督が香山蕃である。1969年まで会長職を務め、高校ラグビーや大学ラグビーの再構築を成した香山氏は、最後の年の5月3日に他界。もっと色々なことをやりたかったのでしょうけど、以降、現在の第15代土田雅人会長に至る迄、多くの関係者の働きがあって、戦前の日本ラグビー界が目指した「世界」に近付いた。いや、近付いたは失礼なので到達したって言い換えよう。

岡村正、森重隆 & 平尾誠二・土田雅人

前会長で現名誉会長の森重隆さんが、まだ福岡高校のラグビー部員として花園でプレイしていた頃は、不肖私はまだラグビーをよく知らない”子ども”だった。明治大学で活躍されていた頃(早明戦など)はうっすらと覚えている。そして、新日鉄釜石の黄金期に日本を代表するトライゲッターとして輝いた。福岡のラグビー大好き小僧にとっては憧れの選手だった。でも、まだ若くして30歳で現役引退。博多に戻って実家(森硝子)を継ぐってニュースが飛び交った時、「えェっ!」って福岡でも多くの人が驚いた。物凄く機敏で、天才的なプレイで魅了した人だったけど、ラグビー自体を辞めちゃうのか?と残念だったけど、母校・福岡高校の監督になって復活。その後は九州協会や日本ラグビー協会の要職を歴任してラグビー協会の会長(2019年~2022年)に。そして日本初のラグビーユニオン・ワールドカップを、前会長・岡村正さん(東大ラグビー部=≫東芝。東芝社長~現・名誉会長)と共に成功に導いた(成功だったよね?)。岡村さんも、ウィスコンシン大学の修士課程修了とか、東芝の社長とか凄い経歴だけど、東芝の経営が大変になった時期のラグビー協会の仕事は結構辛かったかもね。

今、ようやく日本ラグビーが長い眠りから目を覚ました状態。今後、このまま隆盛を極めることを強く望むけど、そんな楽な話じゃないだろう。本当に、平尾誠二さんがこの世にいないのが残念だけど、平尾さんと同世代のライバルだった土田会長体制で何とかこのまま良い方向へ導いて頂きたく、今回はこれで終わり。

コメント