騎馬民族

民族・部族興亡史

ペルシアの興りと人種区分

パフラヴィー朝第2代皇帝、通称パーレヴィ国王は、初代皇帝の父レザー・シャーにも増してアーリアン学説を強く支持した。 アーリア人の国を意味する「イラン」という言葉は古代~中世にはなく、歴史的にはエラムであり、メディアであり、ペルシアであった。
民族・部族興亡史

イランの興りと遊牧騎馬民族

『イラン』という名前は、イラン人曰く「アーリア人の国」を意味する言葉。 『ペルシア』という名は、アケメネス朝当時の首都ペルセポリスと周辺地名「パールス(パールサ)」という二つが由来。 でも、紀元前6千年から5千年以上の間、『エラム』だった。
東欧史

ヴァンダル(4)~マルコマンニ戦争3~

ローマを戦争勝利に導いたヴァンダル族は、ローマの協力者としてダキアの西半分と現在のハンガリーが領地として保障された。 それに加えて、ローマの市民権を望む者にはそれに見合う教育を受ける条件で移住が認められるなど、ローマと共に歩むようになった。
東欧史

ヴァンダル(3)~マルコマンニ戦争2~

歴史的には敵対していた時の方が目立つスラヴのヴァンダル族とゲルマンのゴート族。ですが、マルコマンニ戦争では同盟していた。 因みに、ゴート族にもヴァンダル族にも複数の部族・国家名称があるけれど、住んだ地域によって名前が違っていくのは珍しくない。
東欧史

ヴァンダル(2)~マルコマンニ戦争~

ローマに苦戦するイラン系王朝パルティアからの要請で、 同じイラン系の遊牧騎馬民族集団(総じてヤジゲ族)は、隣接するヴァンダル族と共にローマ属州ダキアに侵攻した。 同時期、ゲルマニアの諸族が次々とローマに反抗。これがマルコマンニ戦争と呼ばれる。
東欧史

ヴァンダル(1)

スラヴ系国家ポーランドは、ピャスト朝として建国された。その国家の始まりからポーランドを支えた民がヴァンダル人である。 ヴァンダル人は、その昔シレジアに在って、シリンジィ・ヴァンダルとも呼ばれた。やがて彼らは西ローマ帝国を滅亡へと追い込む。
東アジア史

民族・部族興亡史(5)=匈奴2=

匈奴と漢王朝はずっと戦っていた。 漢王朝は、匈奴と戦う為の同盟相手として、匈奴に敗北して西へ逃げた月氏を求めた。 漢の武帝の使命を帯びた張騫は、十年を超える苦労の末に大月氏を探し出す。同盟は成せなかったが漢王朝は西の色んな国を知った。
東アジア史

民族・部族興亡史(4)=匈奴1=

人類史上最も広大な国家領域を有したモンゴル帝国=元朝。 そのモンゴルよりも1500年ほど早く、遊牧騎馬民族として最初の中国統一王朝を築く可能性があったのが匈奴。 匈奴は、第2代単于冒頓の時代に漢王朝を屈服させ周辺部族の殆どを支配した。
民族・部族興亡史

民族興亡史(3)=キエフ・ルーシ=

ゲルマン民族系部族の多くが遊牧系騎馬民族相手に太刀打ち出来なかった中で、殆ど無傷だったのがノルマン人ヴァイキングだった。 フン族がスカンジナヴィアへ向かわなかっただけの事だったかもしれないが、東スラヴ人は藁をも掴む思いでヴァイキングと握手した。
民族・部族興亡史

民族・部族興亡史(2)=スラヴ語族と騎馬民族(キエフ・ルーシ誕生以前の東スラヴ史)=

古代スラヴ語族は、コーカサス地方を北上し、黒海北岸一帯を陣取って領域を拡大していった。 しかし、遊牧騎馬民族に侵略されて、東、西、南という3つのグループに分かれた。 汎スラヴ主義者は、一つのスラヴに戻れると狂信的思想を持つがそれは絶対に無理。