王の誕生と日本の未来

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狩猟と採集によって生活が支えられていた太古の昔、ひとつの家族が暮らしていくには約1000ヘクタールもの土地が必要だった。その広大な面積の中の生物を狩り、果実・木の実などを拾って生きていた。
時が経ち、狩猟が牧畜へ、採集が農耕へ進化していくと、それらの地域では10ヘクタール程度の土地があれば一つの家族にっては十分な暮らしが営めるようになる。

生活領域(居住領域)の”無駄”を省くことに成功出来たことが、ホモ・サピエンスを、この星(地球)に生きる地上動物の絶対権力者として決定付けさせた。つまり、限られた面積の中に多くの人が暮らせることを可能とし、そういう領域を数限りなく地球上に築いていった。

狩猟・採集を生業とする移動性民族だった筈のホモ・サピエンスが、牧畜・農耕を生業とする定住性民族となって圧倒的に人口を増大させる。狩猟・採集期が終われば姿を消していたホモ・サピエンスが、いつまでも其処に居て、尚且つ、多くのヒトが暮らし始める。ということが、ホモ・サピエンスの”隣に暮らす”動物達の脅威となった。そして「家畜」となり「食材」となり、(動物園で)見世物として生かされる。既に絶滅した種族、絶滅危惧種となっている種族・・・これ以上の説明を必要とはしないでしょう。

ホモ・サピエンス内でも、狩猟・採集生活者が生活圏を奪われ続け、現在ではごく少数の部族が「保護区」で生かされている。それは避けようもなかった現実だが、牧畜・農耕を生業として定住型となり居住者が増えた集落はやがて「村」と呼べるようなコミュニティーに変化する。村同士が近接し、個々の村の民はいつしか”境界”を意識するようになり、村単位で独自の”決まりごと”を守り合う「約束」が始まる。
が、約束(決まりごと)を守らない者・守れない者は太古の昔から後を絶たず生まれる。現代では、全ての約束事を律儀に守る方が「馬鹿を見る」などと言われる始末だが、兎も角、約束事を守らない違反者に対し罰則が与えられるようになる。罰の度合いを決めるのは民による「合議」であったかもしれませんが、最終決裁者は「村長(むらおさ)」でしょう。

村長となった最初の人は”長老”であったかもしれないし、強大な力を有する現役世代のリーダー格の者であったかもしれないし、女性であったかもしれないし、子どもであった可能性もゼロではない。それぞれの村で「独自」の仕来りがあり、村長に対する考え方も各村単位でバラバラだったでしょう。全世界が一つの意思(法)で統一されていたわけではないのですから。

境界=自分たちの土地(領域・縄張り)を意識するようになると、自分たちの土地をより良いものにしようと励む力が生まれ、何となく役割が出来上がる。「力のある男は狩猟を行いながらの牧畜」とか、「女は近場での採集を行いながらの農耕」とか、その程度であったかもしれないが役割が決まる。最初の村は、狩猟採集生活を営んでいた傍に誕生した筈だから、すぐ近くには、まだ狩猟の出来る場所や採集の出来る場所があったろう。

時が経つと、どんどん人が増え村の境界が広まる。人が増えるということは、食料生産技術の向上があったということだ。それは「余剰生産を可能とした」ことになる。つまり、備蓄性の高い食料を生産出来るようになり、備蓄を可能とする設備を造れるようになったわけです。備蓄したものを後から調理出来るようになった。備蓄している食料をあてにして別の何かを生産する「実験」も可能になった。そして盗まれないよう、備蓄されている物、及び備蓄施設を「見守る」役割を果たす者を必要とした。
最初は動物相手の見守りだったのでしょうけど、やがては規律を違反するヒト(盗っ人)へも監視の目が向けられていく。監視する者が弱ければ何にもならない。必然的に、村の中でも屈強な者がその役割を果たす。現代日本で言えば「自衛官」とか「警察官」のようなもの。

「村」が大きくなれば、その村の豊かさも目立ち始める。豊かな村には豊富な備蓄食料がある。そういう噂(=事実)に対して豊かではない者達は憧れる。豊富な食料を欲しくなる。物々交換を申し出て来る相手が多く現れる。豊かな村は、交易の拡大によってますます豊かさを増す。すると、交易相手を選ぶようになって行った。そりゃあ、美味しいものや役立つものを持ってくれば交換するが、石っころしか持ってこない、棒切れしか持ってこない、そもそも「何を言っているか分からない者達」は、交易対象から外れて行く。するとどうなるか・・・
交易対象から外された者が、自分たちで努力して、交易対象となれるように革新すれば良いのだが、中には、「ふざけやがって!」「バカにしやがって!」と怒り狂う者達も現れる。怒り狂った者達にとって、豊かな村は攻撃対象としては魅力的だ。何と言っても備蓄食料が豊富に存在するし、多くの人がいるということは多くの魅力的な女もいるということだ。襲いたくなる理由は探せばいくらでもある。襲いたくても襲わないのが現代人の規律だが、そんなものはない時代、襲いたくなれば襲う。 獰猛な動物を相手に狩猟生活を続けている者達にとって、農耕に勤しむ人たちはひ弱にも思えた。石斧、石鑓、弓、棍棒、何でもかんでも持って彼らは襲来する。その内に、襲ってくる相手は狩猟生活者だけではなくなり、豊かではない村や豊かさを競う村ともなってゆく。襲ってくる人数が格段に増えて来る。こうなると、数人の監視者では手に負えなくなる。

というわけで、村が大きくなれば境界を警備する為の警ら組織が必要となり、やがてそれは兵の役割となる。兵を食わすために食料生産技術は加速度的に向上し、ますます備蓄食料が増え、備蓄スペースの拡大により建物が頑丈化し、それに伴い各居住宅も”立派”になっていく。もう「村」ではなくなり、それは「都市」にも通ずる機能を持った。そして村長(むらおさ)は都市を統治する「王」となり王による統治、即ち「王政」が始まった。また、王の存在を嫌う(必要としない)都市には「議会(民政)」が誕生した。

王は統制の証だが、王による絶対統治がなければ成り立たない。という国家は現代では極めて少ない。が、国家主席や大統領などと役名を変えた「王」を欲しがるのも人間社会の習性である。国家主席や大統領、または違う名称での世襲制統治国家が無いわけではない。絶対的な統治者を欲しがっている。または絶対的統治者の血筋を敬う。という事は、ヒトの性格(本質)は、知らない他人からの指示・指導を受ける事を好まず、知っている気になれる高名な者に対して信を置きたがる。という事。
つまり、「信」を得らえない者は王になる事は出来ず、王の不信は体制崩壊を招く。

余計なことだが付足すると、現代日本は絶対君主制ではないが立憲君主制である。即ち、憲法による民主的な統治を象徴的な君主である天皇が認めて成立している。ところが、これまでには考えらえない事であったが、今、天皇家や宮家に対して不信感を露わにした言動が目立つようになっている。この事に対して、政治が真剣に向き合わないと日本国の形は瓦解する。

如何に大きな柱でもいつかは必ず倒れる。「立憲君主制」ではなく、「立憲主義」だけで良いとする政党も堂々と存在する。が、天皇家が本当になくなった時、日本は「日本国」では無くなる。日本の名称を遺すにせよ、その後には、”民主共和国”みたいな名称が続く。そういう事に対して、国民一人一人が真剣に向き合い考えて政治行動(投票行動)に反映させなければならない。

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