「時代」を修復する人達

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誰かが保存しようとしない限り、(芸術)作品は消えてなくなる。作品はおろか、文化や歴史そのものだって、保存しようとしない限り消え行く。

世界各地に、(主に)文化財を何らかの技術を以て保存・修復する仕事があります。勿論日本にもそのような分野で活躍する人たちがいて、以前、紙本保存修復家の坂本雅美さんという方の記事を読んだ事があります。その記事中に「修復する人がいるからではなく、残そうとする人、つまり保存しようとする人がいるから作品は残る」という坂本さんの言葉がありました。

歴史的資料(絵画、文章、陶器・工芸品、その他諸々)を、修復・保存する技術を有する人がいなければ、歴史を証明する事を誰も出来なくなる。その時代に起きた出来事や生まれた作品を、「(これは)”必ず”後世に遺さなければならない」という使命感を覚えた人がいたからこそ、保存・修復に必要な技術が生まれた。保存しようとする人、良い状態を保つための修復技術を持つ人、そういう人達がいらっしゃるから文化財の価値が正しく保たれているんですよね。尊敬します。

修復士(若しくは保存士)の仕事は、あくまで文書が文書である状態にしたり、絵画が絵画である状態にしたり、陶器が陶器である状態にしたり、建物の旧跡から建物を形付ける等そこまでです。歴史を明らかにする役割は、史家や美術家や考古学者へと渡される。なので、修復士の仕事は歴史を修復するわけではない。でも、修復士がいなければ歴史の新発見も有り得ない。変化や新発見が起きない分野は誰も興味を示さなくなるし学問としては廃れ行く。

歴史の修復と歴史の改ざんは全く別物。
自分が知り得た以上のことを認めたがらない人は、歴史の新発見を嫌う。けれども、歴史には不思議な復元力があり、いつか必ず正史が顔を出す。近年の日本では、真田幸村として語られ続けた武将が、実は、真田信繁であったことが判明し、幸村という表記は明らかに減少した。今年の大河ドラマでも、「真田信繁」としてごく自然に登場している。これなども、歴史の復元力だと思います。

紙本保存修復家や美術修復士は、日本では馴染みが薄いかもしれないけれど、ヨーロッパなどでは、家業として受け継いでいる人達も少なくない。という事を以前、BLOGで読んだことがあります。

修復・保存を生業とするには、技術は勿論、歴史や文化に対する敬愛が必要となる。敬愛の想いがあるからこそ、より高い技術を求め続けられる。正に、人類の歴史が続く限りSDG’sですね。

因みに、歴史修復ではなく保存・守護という観点から、不肖私は一条兼良を尊敬しています(参照記事↓)。

世界に誇れる「書の疎開劇」~一条兼良の偉業~

書物を焼失させてはならない。書物こそが国の宝、根幹であるとして、一条兼良は火と盗賊と戦いながら書物を守り、そして疎開させた。この英断があったからこそ、我が国は最低限の「書文化」を失わずに済み、地方にも、書を読む文化を根付かせられた(それでも、かなりの量の書物が焼失した。ほんと、バカタレどもです)。

不肖私如き全く学の無い地方住まいの者でも、本を読める環境(図書館や本屋)が身近にあるのは、一条兼良の「書の疎開」という行動の賜物と思っています。学び(読書)こそが大切という事を摂政まで上り詰めた人が命がけの行動で示してくれた。だから、誰よりも尊敬出来る。一条家が、率先して焼失書の復元作業に当たったことは、日本の歴史上でもっと高く評価されるべき事柄と思っています。

古代ローマのように、主に政治犯に対する記録抹殺刑が罷り通った時代の国家があった。そういうことが起きると歴史に虫食いが起きて、辻褄が合わないような出来事が散見される。けれども、生きた記録を消された人々に対し、「開かずの書」のようなものがあったらいいな。そのような書のページが開かされた時、今まで伝えられてきた歴史が大きく覆されることがきっと起きる。

数千年前、数百年前にへし曲げられた真実が、数千年後、数百年後に修復されて顔を出す。凄くロマンのある話です。日本にも、そのような文化的な仕事でメシが食える人々が増えたら、もっともっと面白い国になるかな。そう思う次第です。

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